2003年5月12日
最高裁判所 御中
殺人等 被告人 ○○○
弁護人 高野隆
同 松山馨
同 山本宜成
同 鍛治伸明
上記被告事件について、平成15年4月14日付接見当禁止取消請求につき東京高等裁判所第10刑事部がなした「職権を発動しない」との決定に対して異議の申立をなしたところ、同高等裁判所第11刑事部は同年5月7日これを棄却する決定(平成15年(け)第11号)をした。この決定に対し次のとおり特別抗告を申立てる。
抗告の趣旨
1 原決定及び原々決定を取消す。
2 本件接見等禁止決定を取消す。
との裁判を求める。
T 事案の概要
被告人は平成12年3月24日公正証書原本不実記載・同行使の被疑事実によって逮捕され同月27日勾留されたが、それと同時に接見等禁止決定を受け、その後、同事件のほか殺人等の罪で公訴を提起され、同事件の第1審公判中も、そして判決言渡し後も引き続き接見禁止が解除されることなく、今日に至っている。現在効力を有している接見禁止決定は平成13年3月30日にさいたま地方裁判所第2刑事部がなした決定であり、それは「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」を理由とするものである。
被告人は、捜査段階から殺人等の訴因について事実を強く否認しているが、平成14年10月1日さいたま地方裁判所は全ての訴因について被告人を有罪と認め、死刑判決を言渡した。被告人は即日控訴し、事件は東京高等裁判所第10刑事部に係属した。
同刑事部は、被告人の勾留更新決定を繰り返したが、一審裁判所が「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」があることを更新の理由としていたのに対して、同刑事部はあえてこの事由を更新理由としない決定をし続けた。したがって、東京高等裁判所第10刑事部は、被告人には「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」はもはや存在しないと判断していることが明らかである。
そこで、われわれは平成13年3月30日決定が根拠とした「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」はすでに消滅したのであるから、当然に接見禁止決定は取消されるべきものであるとして接見禁止取消し申立をおこなった。
この申立てに対して第10刑事部は、「職権を発動しない」との決定をなした。われわれは、この決定を不服であるとして、異議申立を行なったが、同高裁第11刑事部は「接見等禁止取消の申出に対して職権を発動しない旨の裁判所の措置は、刑訴法428条2項にいう異議の対象となる決定に該当しないから、本件申立は不適法である」として異議申立てを棄却した。
U 原決定は裁判所で裁判を受ける権利を保障した憲法32条に違反する
日本国憲法32条は「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」と定める。この規定は、権利の侵害を受けている個人が裁判所という国家機関を利用して、自己の権利が侵害されているかどうかを判断してもらい、権利侵害の事実がある場合にはこれに対して適切な救済を受ける権利を含むものである。
この権利保障の責任を担う裁判官は、救済を求める個人が果たしてそのような権利をもっているのか、もっているとしてその侵害が生じているのかを判断して、その判断を国家機関として表明することによって、この責任を果たさなければならない。そうでなければ、われわれ市民は裁判所という機関を税金を支払って設営している意味がない。
さらに、裁判官は、個人の権利救済の申立に対して一定の判断を示したときには、その判断の理由を明らかにする責務を負っている。理由なしに結論を述べるなどということがあってはならない。なぜなら、裁判というものは紛争を解決するために用意された国家機構であり、紛争を沈静化するためにはその判断の合理性が保たれ、そのことが市民一般の納得を得られるものでなければならないからである。さらに、裁判の過程は、他の政府機関のような多数決原理に支配される民主的な基盤を有するものではなく、裁判官は民主的な過程によって選ばれるものでもないのであって、その判断のプロセスも国民の多数派から支持されるというだけでは正当化できず、法と論理に照らして正当化されることが明らかにされる必要があるからである。すなわち、裁判はその理由の表明によって合理性が担保されることを通じて、たとえ少数派の意見であっても「法の支配」の原理に照らして正しい意見は受け入れられることが保障されなければならないのである。裁判はそのようなものとして機能することが要請されているのである。国会議員や内閣総理大臣は、その政治的な選択の正当性について一々説明をしなくても、選挙という民主的なプロセスを通じて評価されるのに対して、裁判官はそのようなプロセスが保障されていないので、自らの判断の正当性を裁判の「理由」という形で市民に説明する義務を負っているのである。
憲法32条はこのように、権利の存否の判断を示し、かつ、その判断の理由を裁判官によって示される、そうしたものとしての司法運営を保障したものなのである。
原決定は、この裁判官の最も基本的な責務を放棄した。われわれは、接見禁止決定が個人の表現の自由を全面的に制約するものに他ならず、この制約を受けている個人は、このような権利侵害状況の適法性を審査してもらい、違法であるときには裁判所によって救済してもらう権利がある;そのような権利が付随するのでなければ、憲法が一定の権利を保障した意義はない;したがって、接見禁止決定を受けた個人は、その決定から時間が経過し既に当初の決定理由が消滅したと考えるときには、当初の決定の取消しを求める権利がある;この救済の申出を受けた裁判所はその救済の適否について判断を示さなければならない、として本件異議申立を行なった。
しかるに、原決定は、一言「接見等禁止取消しの申出に対して職権を発動しない旨の裁判所の措置は、刑訴法428条2項にいう異議の対象となる決定に該当しない」という結論だけ述べて、われわれの異議申立てを退けたのである。この決定は、被告人の権利の有無についての判断を放棄したという意味においても、そして、判断をしない理由についての説明を一切拒否したという意味においても、個人に対して「裁判」を拒否したに等しいのである。原決定が憲法32条に違反することは明らかである。
V 原決定は表現の自由を保障した憲法21条1項に違反する
人は他者と会い、話し、手紙のやり取りをする自由をもっている。これは日本国憲法21条1項が保障する「その他一切の表現の自由」に含まれる。このような個人と個人との間のコミュニケーションの自由が保障されていることは自由な社会・民主主義社会の存立を支える重要な要素の一つである。今日憲法21条が保障する「表現の自由」が他者とのコミュニケーションの自由を意味することは全く異論を見ないといって良い。芦部信善教授は「表現の自由は、情報をコミュニケートする自由である」と言っている(芦部信善『憲法(新版)』(有斐閣、1997年)、161頁)。阪本昌成教授は「表現の自由における表現とは『対人的コミュニケーション行為』をいう」と明言している(阪本昌成『憲法理論V』(成文堂、1995年)、4頁)。右崎正博教授は次のように説明している。
ところで、表現行為とは、自己の意思を外部に向かって表明する行為である。そのため、表現の自由は、伝統的には、人が自分の言いたいことを自分の思う方法で表現することを国家によって不当に制限されない権利の保障、すなわち消極的な妨害排除請求権としてのみ理解され、表現の自由の課題の中心も「表現する自由」を国家による干渉や抑圧からいかに守るかに置かれてきた。しかし、表現行為は、本来的に表現の受け手の存在を予定し、受け手との相互のコミュニケーションが成立してはじめて意味を持つものである。したがって、単に「表現する自由」が保障されるというだけでは不十分である、ある人から発せられた表現が、ゆがめられることなく伝達されて、受け手に受領されるまでの一連の過程が、全体として自由を保障されない限り、「表現の自由」は完結しない。今日、情報の自由な流れ(「情報の自由」)や情報を受領する自由や権利(「知る権利」)が、本条の範疇に属する問題として論じられるのは、そういう理由による。(『基本法コンメンタール・憲法[第4版]』(日本評論社、1997年)[右崎正博]、125頁)
接見禁止という措置はこのコミュニケーションの自由を全面的に奪う国家行為である。個人が国家から訴追されているという事実だけで、このような広汎な自由制約が正当化されるとは言えないことは明らかである。刑事被告人という特殊な立場におかれた人の実情を一般国民が知りその情報を共有することは、民主社会においてむしろ奨励されなければならないことである。刑事訴追されたというだけでその人から何らの情報も届かない社会、刑事被告人というだけで個人が社会から抹殺されてしまうような社会をわれわれは決して望まない。
接見禁止という、表現の自由に対する規制は、表現の内容そのものに向けられた規制であり、しかも事前の、全面的な禁止である。いわば表現に対する考えられうる最も重大な規制なのである。このような表現の自由に対する重大かつ深刻な規制を正当化するためには、単に刑事被告人であるということで足りるものでないことは勿論、「被告人が証拠隠滅行為をするかもしれない」という抽象的な危険性で足りるというものでもない。そのような広汎かつ深刻な自由制約が許されるためには、高度に差し迫った危険性と他の効果的な代替的措置が存在しないということが証明されなければならないだろう。
本件においてそのような危険性が存在しないことは明らかである。決定の根拠となった理由がもはや存在せず、その不存在に裁判所自身が気付いているのである。これ以上甚だしい権利侵害はない。
表現の自由を侵害されている個人は、いかなる場合においても、自由制約の正当性を争い、自由を回復する措置を求めることができなければならない。それができないとすれば、憲法の保障は無意味に帰する。本件の場合のように、対象となる決定がなされてから長期間が経過し、その間に事情が大幅に変更して、当初の決定の根拠が失われているという場合には、被告人にその事情変更を主張させて決定の変更を求める権限を与える必要性はなおさら大きい。そうでなければ、一度なされた接見禁止決定が半永久的に存続することになりかねない。
法律が接見禁止について当事者に取消請求権を認める明文規定を定めなかったのは、接見禁止が勾留に付随する処分であり、本体の勾留と運命をともにする処分であるから、勾留取消請求権(刑訴法87条)はその付随処分である接見禁止の取消請求権をも当然に含むと考えたためであると思われる。本体である勾留について取消し請求ができるのに、付随処分に過ぎない接見禁止の取消し請求を認めないというのは明らかに権衡を失している。
東京高等裁判所平成4年11月25日決定は、接見禁止の一部解除は「被告人にとって利益であるから」被告人にはこれに対する不服申立権はないとした(高刑集45‐3‐120)。接見禁止の取消しをしないという処分は被告人にとって不利益な処分である。したがって、被告人に不服申立権が認められるべきである。
また、接見禁止の一部解除に対して検察官側がする準抗告の可否について、徳島地方裁判所昭和43年1月20日決定は次のように説示している。
かかる見解[準抗告を認めない見解]は、被疑者の接見等の禁止につき検察官にその請求権が認められており、その取消、解除については犯罪捜査の職責を負う検察官が最も重大な利害関係を有することに鑑み、当を得ないものというべく、なお、文理上もその禁止の取消、解除の裁判が同法429条第1項第2号の「勾留……に関する裁判」にあたると解することができるから、接見等禁止の取消、解除の裁判に不服のある検察官は右規定に基づいて準抗告の申立てができるものと解するのが相当である。下刑集10-1-106、107頁。
一部解除の裁判に対して検察官の不服申立てを認めるのに、それをしない裁判に対して被告人の不服申立てを認めないのは不公平である。この決定が言うように接見等禁止の取消、解除は刑訴法429条1項2号の「勾留に関する裁判」の一つである。そうであるとすれば接見禁止の取消しをしない裁判も「勾留に関する裁判」と解釈して何の不都合もないであろう。そして、接見禁止の一部解除について検察官が重大な利害関係を有するのと同じように、あるいはそれ以上に、それが認められない被告人には接見禁止を取消さない裁判について利害関係が認められることも明らかである。
このような法律解釈が不可能であり、法律は接見禁止の取消し請求権を被告人に認める規定を用意していないのだ解釈するしかないのだとしても、それで終わりにしていいはずはない。表現の自由はそれほど軽い権利ではない。法律が権利救済の措置を用意していないとしても、憲法21条1項がこのような救済措置をとることを直接要請しているのである。長谷部恭男教授はこのことを「『国家からの自由』に付随する『国家による自由』」というコンセプトで説明している。
それというのも、これら「国家からの自由」は、権利主体が国家に対して、たとえば表現行為を禁止したり強制したりしないように要求する権利を含んでおり、そのため、国家がそうした禁止や強制を行った場合には、少なくとも他の同等に実効的な保護手段が利用可能でない限り、そうした禁止や強制の合憲性を争い、救済を求める地位が憲法上保障されなければならないからである。こうした地位の保障は、それが裁判所によって保障される場合でもやはり「国家による」保障である。つまり、「国家からの自由」は、それへの国家による侵害行為の合憲性を争い、救済を求める地位が「国家により」保障されるべきことを含意する。ホームズとサンスティンが指摘するように、政府に「対する」保障は、政府に「よる」保障なしには想定しがたい。(長谷部恭男「国家による自由」ジュリスト1244-31(2003年)、32頁)
最高裁判所大法廷は、「高田事件判決」において、憲法37条1項が保障する迅速な裁判を受ける権利は、「単に迅速な裁判を一般的に保障するために必要な立法上および司法行政上の措置をとるべきことを要請するにとどまらず、さらに個々の刑事事件について、現実に右の保障に明らかに反し、審理の著しい遅延の結果、迅速な裁判をうける被告人の権利が害せられたと認められる異常な事態が生じた場合には、これに対処すべき具体的規定がなくても、もはや当該被告人に対する手続の続行を許さず、その審理を打ち切るという非常救済手段がとられるべきことをも認めている趣旨の規定であると解する」とした。
刑事事件について審理が著しく遅延するときは、被告人としては長期間罪責の有無未定のまま放置されることにより、ひとり有形無形の社会的不利益を受けるばかりでなく、当該手続においても、被告人または証人の記憶の減退・喪失、関係人の死亡、証拠物の滅失などをきたし、ために被告人の防禦権の行使に種々の障害を生ずることをまぬがれず、ひいては、刑事司法の理念である、事案の真相を明らかにし、罪なき者を罰せず罪ある者を逸せず、刑罰法令を適正かつ迅速に適用実現するという目的を達することができないことともなるのである。上記憲法の迅速な裁判の保障条項は、かかる弊害発生の防止をその趣旨とするものにほかならない。
もつとも、「迅速な裁判」とは、具体的な事件ごとに諸々の条件との関連において決定されるべき相対的な観念であるから、憲法の右保障条項の趣旨を十分に活かすためには、具体的な補充立法の措置を講じて問題の解決をはかることが望ましいのであるが、かかる立法措置を欠く場合においても、あらゆる点からみて明らかに右保障条項に反すると認められる異常な事態が生じたときに、単に、これに対処すべき補充立法の措置がないことを理由として、救済の途がないとするがごときは、右保障条項の趣旨を全うするゆえんではないのである。最大判昭47・12・20刑集26-10-631。
被告人は平成12年3月24日の逮捕以来3年以上にもわたって、家族と会うことも友人と手紙のやり取りをすることも禁じられているのである。本件の冤罪を世間に訴えることも許されないでいるのである。しかも、裁判所は接見禁止の根拠となった「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由」の存在を否定する決定を繰り返し行っているのである。これは表現の自由を侵害する「異常な事態」ではないだろうか。この事態から被告人を救済し、自由を回復する措置を講じることこそ裁判所の役割ではないか。刑訴法に具体的な規定がないからとと言ってこの事態を放置していて良いというのでは、憲法21条の保障が意味のない規定になってしまうのは明らかである。
ちなみに、「主要先進工業諸国」において接見禁止なる制度を設けているのは日本だけである。
よって、原決定及び原原決定を取消して、被告人に対する接見禁止決定を取消すことを求める。
以上