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刑事司法改革の指針となる、内外の判例、国連関係文書等 ミランダ対アリゾナMiranda v. Arizona, 384 U.S. 436 (1966) [要旨]いずれの事件においても、被告人は警察に拘禁されている間に、警察官、刑事あるいは検察官に尋問を受けた。どの被告人も、取調べが開始される際にその諸権利について十分かつ効果的な警告を受けなかった。4件すべてにおいて尋問の結果口頭の自白が得られ、そのうち3件では供述調書に署名がなされ、これらは彼らの公判で証拠として許容された。すべての被告人は公判で有罪を宣告され、これらの有罪判決は、第584号事件を除き、すべて上訴審においても維持された。判旨は以下のとおり。 1 個人が拘禁され、あるいはいかなる方法であれ実質的にその自由が奪われた後において、法執行官によって開始された尋問によって得られた供述については、免罪的なもの(exculpatory)であれ帰罪的なもの(inculpatory)であれ、第5修正の自己負罪拒否特権を保護するための効果的な手続的安全装置を用いたことを訴追側が示さない限り、訴追側はその供述を利用することができない。 (a) 今日行われている密室での取調べ(incommunicado interrogation)の雰囲気や環境は、それ自体において威嚇的なものでありかつ自己負罪拒否特権を侵害する作用を持っている。拘禁環境につきものの強制を払拭するために十分な保護措置が採られない限り、被告人から得られたいかなる供述も、真に自由な選択の産物であるということはできない。 (b) 自己負罪拒否特権は、永きにわたって徐々に拡充してきたという歴史的な経緯を辿ったのであり、わが国の当事者主義のシステムにとって不可欠の大黒柱であり、身柄拘束下の取調べにおいても、裁判所やその他の公式の捜査におけると同様に、「何ら制限されることなく個人が自らの意志を行使した結果として、話すことを彼が選択するのでない限り、沈黙を保つ権利」を個人に保障するものである。 (c) エスコビード対イリノイEscobedo v. Illinois, 378 U.S. 478の判決は、警察の取調べの過程をこの特権が要請するところに適合させるための保護装置の必要性を強調するものである。 (d) 他の効果的な手段が欠けている限り、第5修正の特権を保障するためには、以下の手続が履践されなければならない。身柄を拘束された個人は、取調べの前に、彼が沈黙を保つ権利を持っていること、そして、彼が述べたことはいかなるものも裁判所において彼に不利益に利用されるだろうことを、明確に告げられなければならない。彼が弁護士と相談する権利をもち、かつ、取調べの間弁護士に付き添ってもらう権利を持っていること、そしてまた、彼が無資力ならば彼を弁護する弁護士が選任されるだろうことを、彼は明確に告知されなければならない。 (e) 取調べの前あるいは取調べ中に個人が沈黙したいとの希望を示唆したときは、取調べは中止されなければならない。彼が弁護士を求めるときは、弁護士が在席するまで取調べは停止されなければならない。 (f) 弁護士の立会いなしに取調べが行われ供述が録取されたときは、被告人が彼の弁護権を熟慮のうえで知的に放棄したことを証明する重い責任が政府の肩にかかる。 (g) 身柄拘束下の取調べにおいて個人が幾つかの質問に答えた場合においても、彼は特権を放棄したわけではなく、その後において黙秘する権利を行使することができる。 (h) これらの警告と放棄は、これと同等の充分効果的な措置が採られない限り、帰罪的なものであれ免罪的なものであれ、被告人がなした供述を許容するための必要条件である。 2 個人の憲法上の権利を擁護するために必要な、取調べに対するこれらの制限は、FBIの手続やその他の法域で行われている保護措置が明らかにしているように、適切な法執行システムに対する不適切な妨害をもたらすものではありえない。 3 本件それぞれにおいて、各供述は、自己負罪拒否特権を保護するための憲法上の安全装置の基準を満たしていない状況において採取されたものである。 98 Ariz. 18, 401 P. 2d 721判決、15 N.Y. 2d 970, 207 N.E. 2d 527判決及び16 N.Y. 2d 614, 209 N.E. 2d 110判決は破棄された。62 Cal. 2d 571, 400 P. 2d 97判決は維持された。 第759号事件申立人のためにJohn J. Flynnが弁論した。彼とともにJohn P. Frankが趣意書を提出した。760号事件申立人のために、Victor M. Earle IIIが弁論し趣意書を提出した。第761号事件申立人のために、F. Conger Fawcettが弁論し趣意書を提出した。第584号事件申立人のために、カリフォルニア州司法次官Gordon Ringerが弁論した。彼とともに司法長官Thomas C. Lynch並びに司法次官補William E. Jamesが趣意書を提出した。 759号事件被申立人のためにGary K. Nelsonが弁論した。彼とともに司法長官Darrell F. Smithが趣意書を提出した。760号事件被申立人のためにWilliam I. Siegelが弁論した。彼とともにAaron E. Kootaが趣意書を提出した。第761号事件において合衆国のために、Marshall訟務長官が弁論した。彼とともに、Vinson司法次官補、Ralf S. Spritzer、Nathan Lewin、Beatrice Rosenberg及びRonald L. Gainerが趣意書を提出した。584号事件被申立人のために、裁判所の任命382 U.S. 952によりWilliam A. Norrisが弁論し趣意書を提出した。 すべての事件について、裁判所の許可に基づき、裁判所の友(amicus curiae)として、ニューヨーク州のためにTelford Taylorが弁論した。彼とともに、ニューヨーク州司法長官Louis J. Lefkowitz、第1司法長官補Samuel A. Hirshowitz、司法長官補Barry Mahoney及び同George D. Zuckermanが趣意書を提出した。さらに、以下の各州及び法域を代表して各司法長官がこれに参加した。アラバマ州Richmond M. Flowers、アリゾナ州Darrell F. Smith、アーカンソー州Bruce Bennet、コロラド州Duke W.. Dunbar、デラウエア州David P. Buckson、フロリダ州Earl Faircloth、ジョージア州Arthur K. Bolton、アイダホ州Allan G. Shepard、イリノイ州William G. Clark、カンサス州Robert C. Londerholm、ケンタッキー州Robert Matthews、ルイジアナ州Jack P. F. Gremillion、メイン州Richard J. Dubord、メリーランド州Thomas B. Finan、ミズーリ州Norman H. Anderson、モンタナ州Forrest H. Anderson、ネブラスカ州Clarence A. H. Meyer、ノースカロライナ州T. Wade Bruton、ノースダコタ州Helgi Johanneson、オレゴン州Robert Y. Thornton、ペンシルバニア州Walter E. Alessandroni、ロードアイランド州J. Joseph Nugent、サウスカロライナ州Daniel R. McLeod、テキサス州Waggoner Carr、バージニア州Robert Y. Button、ワシントン州John J. O’Connell、ウェストバージニア州C. Donald Robertson、ワイオミング州John F. Raper、プエルトリコRafael Hernandez、そして、バージンアイランドFrancisco Corneiro。 759号及び760号事件の維持及び584号事件の破棄のために、裁判所の許可に基づいて、裁判所の友として、Duane R. Nedrudが全米地方検事協会を代表して弁論した。彼とともにMarguerite D. Obertoが趣意書を提出した。 すべての事件について、裁判所の友として、Anthony G. Amsterdam、Paul J. Mishkin、 Raymond L. Bradley、Peter Hearn及びMelvin L. Wulfがアメリカ自由人権協会を代表して趣意書を提出した。 [法廷意見]Warren首席裁判官が当裁判所の意見を告げた。 本件は、アメリカ刑事法の哲学に対するわれわれの概念の根底にまで立ち至る問題を提起している。すなわち、個人を犯罪の嫌疑により訴追するに際して、社会が合衆国憲法と調和すべく遵守しなければならない制約とは何かということである。詳しく言えば、われわれは、警察における身柄拘束下での取調べ(custodial police interrogation)の対象となった個人から得られた供述の許容性の問題、そして、憲法第5修正の下で個人は自らを罪に陥れることを強制されない特権を与えられているということを担保するための手続の必要性の問題とを扱っているのである。 われわれは、最近エスコビード対イリノイEscobedo v. Illinois, 378 U.S. 478 (1964).において、この問題のうちのある局面を取り上げた。同事件においても、われわれが前にしている4つの事件と同じように、法執行官は被告人を拘束し、自白を得ることを目的として彼を警察署内で取調べた。警察は彼に対して黙秘する権利や彼の弁護士と相談する権利について効果的に助言することはなかった。それどころか、彼らは、被告人が殺人を実行したと主張している、共犯者と目される者と被告人とを対決させた。被告人がその主張を否定し、「僕はマニュエルを撃っていない。やったのは君だ」と言ったとき、彼らは被告人に手錠をかけ、彼を取調室に連れていった。そこで、彼は手錠をかけられ起立させられたまま、彼が自白するまで4時間尋問を受けた。この取調べの間、警察は、弁護士と話がしたいという彼の依頼を拒絶し、そして、既に警察署に来ていた彼の私選弁護人が、彼と話し合うのを妨害した。彼の公判では、彼の異議は退けられ、州は彼の自白を証拠として提出した。われわわれは、この供述は証拠として憲法上許容できないものであると判示した。 この事件は、2年前に判決が出されて以来、裁判所においてその解釈が問題となり、また、激しい法的論争の対象となった。州と連邦それぞれの裁判所において、この判決の意味するものについて検討されたが、結論はまちまちとなった[1]。この判決から派生するものとその核心を支える理念とを探るべく、豊富な学問的著作が執筆された[2]。警察と検察官は、判決の射程と相当性について考えを巡らしている[3]。われわれは、こうして表面化した、身柄拘束下の取調べにおける自己負罪拒否特権の適用をめぐる諸問題の幾つかの側面をさらに検討するために、そして、法執行機関と裁判所が従うべき明確な憲法上のガイドラインを与えるために、本件で上告受理を決定した。382 U. S. 924, 925, 937. まず、われわれがエスコビード判決でしたように、この判旨がわれわれの法思想の一創造物なのではなく、長らく認知されかつ他の局面においても適用されてきた諸原理の適用の一つに過ぎないという前提問題から始めよう。エスコビード判決とそれが宣明する諸原理を精査したうえ、われわれはこれを再確認するものである。エスコビードは、しかし、われわれの憲法に盛り込まれた基本的な権利――すなわち「何人も、いかなる刑事事件においても、自らに対立する証人となることを強制されない」ということ、そして「被告人は弁護人の援助を受ける権利がある」ということ。これらは、かの事件において、官憲の権力的優位を通じて危殆に瀕していた権利である。――を明示したものに過ぎないのである。これらの崇高な権利は、幾世紀にもわたる迫害と闘争を経て初めてわが憲法に定着した。そして、マーシャル首席裁判官の言葉にある如く、これらの権利は「幾世代にわたって保持せられ、かつ ***人類が到達しうる限りの普遍性に到達すべく企図されたのである。」Cohens v.Virginia,6 Wheat.264,387,(1821). 70年以上も前に、この裁判所のわれらの先人たちは雄弁に語った。 何人も自らを断罪することを強いられないとの格言(nemo tentetur seipsum accusare)は、罪を問われた者に対する糾問的で明らかに不正な取調べの方法への抵抗運動にその起源がある。この取調べ方法は、大陸の制度において長らく行われ、1688年スチュアート家が英国の王位から追放され、恣意的な権力の行使に対して人民を保護するための更なる防塁が打ち立てられるに至るまでは、イングランドにおいても珍しい手法ではなかった。囚人による自認や自白は、それが自発的にかつ自由になされる限り、帰罪的な証拠のうちに高い地位を占めるのが常であったが、しかし、被告人が捜査の対象となる犯罪への一見明らかな関わりについて説明を求められるとき、彼に向けられる質問が糾問的な性格を帯びてくることは容易であり、証人を不必要に押さえつけ、もしも証人が臆病ではっきりしないときには彼を怒鳴りつけ、彼を追いつめ、そして、彼を致命的な矛盾に陥れる罠に嵌めようとする誘惑は、初期のころの英国公判記録にある多くの事例のなかに痛々しいほど明瞭である。それらの事例のなかに、著名なサー・ニコラス・スロクモートン(Sir Nicholas Throckmorton)やピューリタンの牧師ユダル(Udal)がいた。このような傾向が制度に対する憎悪を掻き立て、その全面的な廃止を求める要求をもたらしたのであった。イングランドの刑事手続におけるこの改革は、しかし、いかなる制定法にもまたいかなる判例にも基礎をおくものではなかった。しかし、それは民衆の要求のなかで裁判所の一般的かつ黙示の合意に基づいてなされたのであった。けれども、如何にして採択されたかにかかわらず、それはイングランドのみならず、アメリカの法思想のなかにも確かに根づいたのである。アメリカの入植者たちの心に、この古代の制度が自らの邪悪さをあまりにも深く印象づけたために、諸州は、一致して、被告人を尋問する権利を拒否することを彼らの基本的な法の一部にしたのである。それゆえに、一つの格言、イングランドにおいては一つの証拠法則に過ぎなかったこの一つの格言が、この国では憲法を作りだす息吹を身にまとうことになったのである。Brown v. Walker, 161 U.S. 591, 596-597 (1896). 裁判所にはこれらの憲法上の権利を適用する責務があるとして、当裁判所は、ウィームズ対合衆国Weems v. United States, 217 U.S. 349, 373 (1910)においてこう宣言した。 ***われわれが思考しうるものには、単に何であったかということのみならず、何であり得るかということも含まれる。他の如何なる原則のものでも、憲法は、有用性も実効性もないものとして適用することは実に容易であろう。憲法の一般原則は殆ど価値のないものとなり、先例を通じて無力で生気のない決まり文句へと変質させられてしまうであろう。言葉として宣言された諸権利は、実在性を失ってしまうのである。そして、これはいままで認識されてきたことである。憲法の意味と活力は、狭い制限的な解釈との対決を通じて発展してきたのである。 これこそが、過度に熱心な警察実務に対して個人の憲法上の諸権利を実行する方法を、われわれが意味のある言葉で表現した際の精神に他ならない。エスコビードにおいては、本件におけると同様に、憲法が宣明したものが、政府の役人の手の中で単なる「言葉による形式」Silverthorne Lumber Co. v. United States, 251 U.S. 385, 392 (1920)に成り下がらないことを確保する必要があった。そして、今日われわれがエスコビードの原理にこだわることは、この精神のもとにおいて、裁判官としてのわれわれの役割に沿うものである。 われわれの判旨は引き続く頁の中で具体的に説明されるだろうが、以下のように要約することができる。すなわち、検察官は、自己負罪拒否特権を確保するのに効果のある手続的安全装置を用いたことを証明しない限り、被告人に対する身柄拘束下での取調べの結果得られた供述を、帰罪的なものであれ免罪的なものであれ、使用することができない。身柄拘束下での取調べとは、拘禁されあるいは他のいかなる方法においてであれ行動の自由を奪われた後に、法執行官によって開始された質問のことを意味する[4]。用いられるべき手続的安全装置について言えば、嫌疑を受けた者に黙秘権を知らしめかつそれを行使する継続的な機会を確保するための他の十分効果的な手段が用意されない限り、以下の方法が必要である。いかなる質問にも先立って、個人に対して、彼が沈黙を保つ権利を有すること、彼のいかなる供述も彼に不利益な証拠として使用されうること、そして、彼が私選あるいは官選の弁護人の在席を求める権利があること、が告げられなければならない。被告人は任意に、熟慮の上でかつ知的に行われるという条件の下で、これらの権利行使を放棄することができる。しかし、取調べのいかなる段階においても、話しをする前に弁護士と相談したい意向を何らかの方法で彼が示したときは、質問することは許されない。同様に、その個人が一人で如何なる方法であれ取調べを受けるのを望まないことを示したときは、警察は彼に質問することはできない。彼が何らかの質問に答えあるいは自発的に何らかの供述を提供したという事実のみによって、彼が弁護人と相談した上で質問されることを承諾しない限りそれ以上の質問への回答を拒否する権利を奪われることはない。 [第1部]本件における憲法上の論点は、拘禁あるいは他のいかなる方法であれ行動の自由を奪われた状態で取調べを受けた被告人を尋問して得られた供述の許容性ということである。いずれの事件においても、被告人は、外界から切り離された部屋の中で、警察官、刑事、あるいは検察官から質問を受けている。いずれの場合も、取調べの開始にあたって、被告人は十分かつ効果的にその権利を告げられていない。すべての事件において取調べによって口頭の自白が引き出され、3件においてはさらに署名付きの供述が得られこれらが彼らの公判で証拠として採用された。このように、これらの事件はすべて、警察支配の雰囲気の下で外界から遮断された取調べがなされ、その結果憲法上の権利の十分な告知なくして自らを罪に陥れる供述がなされた、という共通の特徴をもっているのである。 身柄拘束中の取調べの性格や状況を理解することは、今日のわれわれの判決にとって不可欠である。このような取調べ中に発生する事態を説明することの困難さは、我が国において取調べが大部分外界から遮断された場所で行われているという事実に由来する。有名な大統領委員会による議会へのウィッカーシャム報告(Wickersham Report)を始めとする、1930年代に行われた広範な実態調査によると、警察官による暴力や「サード・ディグリー」が当時盛大に行われていたことが明らかである[5]。これらの研究のかなり後にこの裁判所が扱った一連の事件において、警察官は、自白を強要するために、肉体的蛮行――殴打、つるし上げ、鞭打ち――に訴え、あるいは密室内での執拗で長時間にわたる尋問を行っている[6]。1961年の公民権委員会は、「警察官の中には今だに自白を得るために物理的な力に訴える者がいる」ことを示す多くの証拠を発見した。1961 Comm'n on Civil Rights Rep., Justice, pt. 5, 17. 肉体的蛮行や暴行の利用は、残念ながら、過去の出来事になった訳ではないし、この国の一部に限られている訳でもない。極く最近、ニューヨーク州キングス・カウンティーにおいて、警察官は、第三者に罪を負わせる供述を獲得する目的で、取調べ中の参考人を激しく殴り、蹴り、その背中に火の点いたタバコの吸い差しを押し付けた[7]。People v. Portelli, 15 N.Y.2d 235, 205 N.E.2d 857, 257 N.E.S.2d 931, (1965). 上に挙げた例は、疑いなく今日では例外的な出来事ではあるが、考慮に値いするほどに広範囲に行われているのである。身柄拘束下の取調べに対する適切な制限――上述の諸判決が推進するような――が設けられない限り、このような取調方法が近い将来消滅するという保証はどこにもない。30年以上前に下されたウィッカーシャム委員会報告の結論は、依然として当を得たものである。 事実を獲得するためにサード・ディグリーが必要であるという主張に対して、現英国司法卿(Sankey卿)の次の言葉を以て適切に答えることができよう。「些少の悪をもって大いなる善を為すということを認めることはできない。***異常なあるいは不当な手段によって正当な結果を得たからといって、正義を為したというには不十分である。」サード・ディグリーの使用は、法執行官による重大な違法行為であるのみならず、虚偽の自白をもたらす危険があり、さらに、警察官や検察官が客観的な証拠を探索する熱意を弱めさえするのである。報告書中でニューヨークの検察官が述べているように、「それは安易な方法であり、警察官を怠惰にし、かつその想像力を失わせる」のである。あるいは、もう1人の官憲が述べているように、「拳(fists)を用いれば、知恵(wits)を用いることがなくなる」のである。われわれは本報告書中に表明されている結論に賛成である。すなわち、「サード・ディグリーは、警察を野蛮にし、囚人を社会に対して頑なにし、そして司法運営に対する公衆の尊敬の念を低める。W National Commission on Law Observance and Enforcement, Report on Lawlessness in Law Enforcement. 5, (1931). われわれはここで、現代における身柄拘束下の取調べの実務が肉体的というよりは心理的な傾向を持っていることを再度強調したい。かつてわれわれが指摘したように、「チェンバース対フロリダChambers v.Florida, 309 U.S. 227以来、強要(coercion)が肉体的のみならず精神的にも行われうるものであり、被告人の血のみが憲法に反する取調べの唯一の証左というわけではないということを当裁判所は理解してきた」。Blackburn v.Alabama, 361 U.S. 199, 206(1960).取調べは依然として外界から遮断された場所で行われている。外界からの遮断は秘密をもたらし、そして秘密は、取調室の中で実際に何が行われているかについてのわれわれの知識に空白をもたらすのである。しかしながら、過去の成功例を引用しまた種々の技法を推薦している警察関係の手引書や教科書の中に、現在の警察実務に関する有益な情報源を見出すことができる[8]。このような教科書類は法執行機関によってガイドとして使用されている[9]。これらの教科書が身柄拘束下の取調べによって供述を獲得するために現在用いられている方法のうち最も啓蒙的かつ効果的な手段を公然と提供するものであることを注意する必要がある。これらの教科書やその他の情報を考慮することによって、我が国において広く観察される手続を説明することが可能である。 手引書は警察官に対して次のように説く。「取調べを成功させるための第1の心理的条件は外界からの遮断(privacy )――取調べを受ける者と1対1になること――である」[10] 。この戦略の効果は次のように説明される。 可能なかぎり、取調べは取調官のオフィスか、少なくとも彼自身が選択した部屋で行われるべきである。対象者はすべての心理的優位を取り去られなければならない。自宅の中では、対象者は自信を持ち、憤慨し、頑なでいることができる。自宅の壁の内側では、彼は自己の諸権利をより敏感に認識するし、自分の無分別や犯罪行為を話すことをためらい易い。さらに、彼の家族や友人が付近にいるときには、彼らの存在が心理的な援助を提供することになる。捜査官のオフィスにおいては、これらの利点のすべてを捜査官自身が手中にすることができるのである。その雰囲気が法の力が抗い難いものであることを暗示する。[11] 孤立と不慣れな環境を際立たせるために、手引書は、被疑者が有罪であることに自信があるという態度を誇示し、ただ細部を確認することにだけ関心があるという素振りをするように警察官に教示する。取調を受ける者の有罪は、動かしようのない事実として前提にされる。取調官は対象者が罪を犯したのか否かを訊ねて失敗に終わるより、彼が罪を犯した理由を追及するように話題を導くべきである。他の男たちと同じように、対象者は家族生活上の悩みを持ち、不幸な少年時代を送り、酒を飲み過ぎ、女性への満たされない欲望を持っているであろう。捜査官は、当該犯罪の道徳上の深刻さを最少限に評価し[12]、被害者や社会を非難するよう教えられる[13]。これらの戦略は、自分の供述は警察官が既に知っていると思われる事実――すなわち彼が有罪であること――を念入りに仕上げる以外の何物でもないのだという心理的状態に対象者を追い込むことを企図して作られいるのである。これに沿わない説明は受けつけられず、あるいは思いとどまらせられる。 こうして教科書は捜査官が備えるべき重要な資質が忍耐と執念であることを強調する。ある著者はこれらの資質の有用性を次のように説明する。 今まで述べたところでは、親切心と戦略に重点がおかれていた。しかしながら、捜査官は、彼の全人格をぶつけることが結果を左右するという場面に非常にしばしば遭遇するものである。情緒的な訴えや策略が役に立たないとき、彼は、一歩も譲らないという抑圧的な態度を堅持するべきである。彼は容赦なく取調べを持続すべきであり、対象者に休止があることを期待できないと思わせなければならない。対象者を支配し、あくまでも真実を突き止める堅固な意志を以って相手を圧倒しなければならない。形式的に見て脅迫されたという訴えが可能と思われるときに、それを避けるのに必要な範囲で休止する以外は、何時間でも際限なく取調べを続けなければならない。重大事件では、何日間も取調べは持続されなければならず、その間、食事と睡眠のため以外に休止してはならない。しかも、休止の間も決して支配されているという雰囲気を緩和してはならない。この方法によって、脅迫や強制に頼ることなしに、対象者を供述に導くことが可能となる。この方法は、対象者の有罪が高度の蓋然性を持っていることが明らかな場合に限り用いられるべきである[14]。 手引書は、最初の自白を得るために被疑者の行為について法的な弁解が与えられるべきであると提案する。例えば報復的な殺人が疑われる場合、取調官は次のように言う。 ジョー、きみはこの男を撃つために捜していた訳ではないだろう。私の考えでは、君は奴が何かしでかすかも知れないと思って、それで拳銃を持って行ったんだ。――つまり君自身の身を守るためにね。君は奴がどうしようもない人間だということを知っていた。君に会った時、奴は君に無礼で口ぎたないことを言った、そして君に向けて銃を引くようなしぐさをしたのだろう。その時こそ君は自分の生命を守るために行動しなければならなかったのだ。そういうことなんだよな、ジョー?[15] こうして撃ったことを認めさせた後、取調官は、正当防衛による弁解を否定すべき状況証拠に言及するよう教えられるのである。これによって彼は全てのストーリーを確実にものにすることができる。ある教科書は、「たとえこの方法に失敗しても、撃ったことを否認した当初の供述と、その後の、少なくとも撃ったこと自体を認める供述との矛盾が、対象者の正当防衛の主張を公判において『無効』にしてしまうことに役立つであろう」と注記している[16]。 上述のテクニックが功を奏しない場合、教科書は、ある程度の敵意を示すべく方向転換することを勧める。しばしば用いられる戦術は「友好−非友好作戦」あるいは「マットとジェフ作戦」と呼ばれるものである。 ***このテクニックにおいては、2人の捜査官が用意される。マット。彼は情け容赦のない捜査官であり、対象者が有罪であることを知っており、時間を少しでも無駄にしたくないと考えている。彼は1ダースもの人間をこの種の犯罪のために刑務所に送ったし、当該対象者をも最高刑期で送り込むつもりである。他方、ジェフは明らかに心優しい男である。彼には家族があり、また、彼の兄弟にも似たような事件に巻き込まれた古傷を持つ人がいる。ジェフはマットと彼の戦術を非難し、そして、対象者が協力するならば彼が放免されるよう取り計らう意図がある。しかし彼はいつまでもマットを抑えておくことができない。対象者は素早く決断したほうが身のためである。このテクニックを利用する場合、マットが彼の役割を演ずる間は双方の捜査官が同席していなければならない。ジェフは静かに待機し、マットの戦術のいくつかに異議を唱えるのである。ジェフが協力を申し出るときにはマットは席を外している[17]。 取調官たちは時として策略によって自白を引き出すことを教えられる。このテクニックは、犯人の同一性の確認が必要な犯罪や連続して行われた犯罪において非常に効果的である。同一性の確認の場合、取調官は質問を一時休止して対象者をラインナップのなかの一群の男たちの中に置く。「証人あるいは告訴人(必要があれば、事前に指導しておく)はラインナップを観察したうえで、自信をもって対象者を犯人として指摘するのである。」[18]そして「あたかも対象者の有罪に疑問の余地がないかのように」取調べが再開されるのである。このテクニックの1つのバリエーションとして「逆ラインナップ(reverse lineup)」と呼ばれるものがある。 被疑者はやはりラインナップの中に置かれる。しかし今回は、複数の偽物の証人か被害者が彼を別の犯罪の犯人であると指摘するのである。対象者は絶望して、誤った訴追から逃れるために捜査中の犯罪を自白することが期待される。[19] 手引書は、また、出来事を完全に話そうとしない人物や弁護士や親族を求める人物をいかに扱うかということについて警察に教示する。捜査官は彼に黙秘権があることを承認する。「これには通常、被疑者の抵抗を非常に弱める効果がある。まず第1に、彼は取調官が自分に対して不利益な反応をするだろうという期待を裏切られる。第2に黙秘権の承認は、対象者に取調官の表面上の公正さを印象づける。」[20]しかし、この心理的な条件付けの後で、被疑者の供述拒否が帰罪的な意味合いを持っていることを指摘するように警察官は教えられるのである。 ジョー、君には黙秘権がある。それは君の特権であり、私には君からその権利を奪おうなどという考えは毛頭ない。もし君がこの権利をとっておきたいのなら、それはそれで結構だ。しかし、ちょっと考えてみてくれ。もしも君が私の立場で私が君の立場だとして、君が私を呼び出してこの件を尋ねたとしよう。そして私が君に「あなたの質問には答えたくありません」と言ったらどうだろう。君は私が何か隠していると思うだろう、そしてそれは多分正しいだろう。君がそう言えば私だってそう考えなきゃならないし、他の連中もそう思うだろう。だから、ここに座って全てのことを話し合おうじゃないか。[21] このモノローグが正確に用いられれば、当初の供述拒否を維持するものは稀である、と言われる。 対象者が親族や弁護士と話し合うことを希望する場合には、次のような助言が与えられている。 取調官は、対象者に対して、他人を事件に巻き込む前にまず取調官に真実を話すべきことを提案するべきである。要求が弁護士の場合は、取調官は、そのような専門的サービスのために彼と彼の家族にかかる経費を節約すること、とりわけ彼が無罪ならなおさらそうであることを提言することができる。取調官はまた、「ジョー、私は真実を探しているだけなんだ。もし君が真実を話してくれれば、それで終わりさ。この位のことは君1人でできるだろう」と付け加えることもできる。[22] これらの代表的な取調べテクニックの例から見て、手引書に書かれまた実務上観察される取調べの条件は明瞭である。要するにこういうことである。隘路を塞ぎ外部からの援助を遮断するためには、対象者と1対1になることが重要である。有罪を確信しているという気配が抵抗の意志を弱める。対象者は警察官が彼に語らせるべく予め用意しておいた物語を確認するに過ぎない。忍耐と執念、そして時には情け容赦のない質問が用意される。自白を獲得するために取調官は「所期の目的を達成しうる地点まで、彼自身と彼の獲物を導くように忍耐強く作戦を展開せねばならない。」[23] 通常の方法では必要とされる結果が得られない場合、警察は虚偽の法的助言を与えるなどの詐欺的策略に訴える。対象者を常に不安定な状態にしておくこと、例えば、彼やその境遇への心配につけ入ることが重要である。そうして警察官は、彼が憲法上の権利を行使しないように、説得し、騙し、あるいは丸め込むのである。 蛮行やサード・ディグリーあるいは上述した各種の戦略がたとえ用いられなくとも、身柄拘束下の取調べという事態そのものが、個人の自由に重い制約を課し、また個人の弱さにつけ入るのである[24]。この事実は、われわれのエスコビード判決の直前の開廷期にこの裁判所が判決した3件の自白事件に言及するするだけでよく理解できるだろう。タウンゼンド対セインTownsend v. Sain, 372 U.S. 293 (1963)では、被告人は19歳のヘロイン中毒者で「準精神障害者」id., at 307-310.と言われていた。リナム対イリノイLynumn v. Illinois, 372 U. S. 528 (1963)の被告人は、婦人であり、彼女の子供が救貧局の役人に連れ去られないためには「協力」が必要であると執拗に求められて、彼女を逮捕した官憲に自白した。これらの事件と同様に、この裁判所は、ヘインズ対ワシントンHaynes v. Washington, 373 U.S. 503 (1963)においても、被告人に対する有罪判決を破棄した。この事件の被告人が取調べの間繰り返し求めたのは、彼の妻と弁護士に電話をかけることであった[25]。このような状況におかれなかったとすれば、これらの者たちはその憲法上の権利を行使できたかもしれないのである。彼らは、外界から遮断された、警察支配の雰囲気のなかで、屈服したのである。 今日われわれが前にしている事件において、以上の背景に基づいて、われわれはこの取調べの雰囲気とそのもたらす弊害に関心を払っているのである。759号ミランダ対アリゾナにおいて、警察は被告人を逮捕し特別取調べ室に連行したうえ、そこで自白を獲得した。760号ヴィグネラ対ニューヨークでは、被告人は、午後の取調べの後に警察に対して口頭の自白を行ない、その後同日の夜、検事(assistant district attorney )の取調べを受けて帰罪的な供述調書に署名した。761号ウェストオーバー対合衆国では、夜間とその翌日の朝に被告人の身柄を拘束して長時間にわたる取調べを行なった地元の警察官が、その後身柄を連邦捜査局に引渡した。約2時間の取調べの後、連邦捜査官は被告人から署名入りの供述を得た。最後に、584号カリフォルニア対スチュワートでは、地方警察が被告人を5日間警察留置場に拘束し、その間前後9回にわたって彼を取調べた結果、彼の帰罪的な供述を得たのである。 これらの事件において、被告人らの供述を伝統的な意味で不任意であると言うことはできないかも知れない。しかし崇高な第5修正の権利を保護するための十分な安全装置に対するわれわれの関心は、もちろん亳も軽減されることはない。いずれの事件においても、被告人は不慣れな環境の中に押し込められ、警察官の威嚇的な取調べ手続にさらされている。強制の潜在的可能性は圧倒的に明白であった。たとえば、ミランダでは、無資力のメキシコ人である被告人は、明らかな性的妄想にひどく悩まされていた。また、スチュワートでは、被告人はロスァンジェルスの貧困な黒人であり、6年生の時に学校をドロップアウトしている。確かに、記録上、目に見える肉体的強制や明らかな心理的策略が行われたという明白な証拠はない。しかし、いずれの事件においても、警察官は、取調べを始めるときに、供述が真に自由な選択の産物であることを保証するための適切な安全装置を用意しようとはしなかったという事実は動かし難いのである。 このような取調べ環境が、個人を捜査官の意思に屈服させる目的で生み出されたものに他ならないことは明白である。この環境は自ら脅迫のバッジを着けている。確かにこれは肉体的脅迫ではない。しかし等しく人間の尊厳を破壊するものである[26]。現今の外界から遮断された取調べの実務は、我が国において最も大切にされてきた原理の1つ、すなわち、人は自らを罪に陥れる供述を強制されないということ、と敵対する。身柄拘束状態に内在する強制の要素を払拭するのに十分な保護的措置が採られない限り、被告人から獲得されたいかなる供述も真に彼の自由選択の産物ということはできない。 以上のことから、われわれは自己負罪拒否の特権と警察での身柄拘束下の取調べとの間に密接な関連があることを十分認識することができる。自己負罪条項のこの状況への適用可能性を判断するために、同条項に関する歴史と先例にここで目を転ずるのが適当であろう。 [第2部]時として、われわれは、自己負罪拒否の特権が確立されるのにいかに多くの時間を要したかということや、この特権の起源とそれを守り抜いてきた情熱を忘れてしまいがちである。そのルーツは古代にまで遡る[27]。その起源と進化の歴史に光を当てる重要な歴史的事件としては、1637年に英国星法院(Star Chamber)の審問を受けた、饒舌なる反スチュワート朝レヴェラーの一人、ジョン・リルバーン(John Lilburn)の裁判を上げることができよう。The Trial of John Lilburn and John Wharton, 3 How. St. Tr. 1315(1637). 彼は宣誓を拒否し、次のように熱弁をふるってその手続を攻撃した。 それから私が主張したもう1つの基本的権利は、自らの犯罪あるいは犯罪に仕立てられた事柄に関する質問に答えるように、宣誓を強いることによって、何人の良心も傷つけられてはならないということである。Haller & Davis, The Leveller Tracts 1647-1653, p.454(1944) リルバーンの裁判の結果、国会は糺問的な星法院法廷を廃止し、さらに彼に対し多大の賠償を行なった。リルバーンが裁判において訴えた高邁な原理はその後英国で人々の支持を得た[28]。この思いは植民地に及び、そして偉大な闘争の末に我が権利章典(the Bill of Rights)に移植された[29]。 我が憲法及び権利章典の起草者達は、個人の自由へのわずかな侵害に対しても常に注意を払っていた。「憲法に反する不法な実務の第一歩は、手続の適法な形式からの無言の試みによって、そして、ちょっとした逸脱によって踏み出される」ということを彼らは知っていたのである。Boyd v. United States 116 U.S. 616, 635 (1886).この特権は憲法上の権利に高められ、そして常に、「自らを防禦すべき相手方である侵害行為と同程度に広範であったのである。」Counselman v. Hitchcock, 142 U.S. 547, 562(1892).われわれはこの高貴な伝統から逸脱する訳にはいかないのである。 こうして、われわれはこの特権の歴史的な発展を、市民に対して国家権力が及ぶ適切な範囲を摸索する過程として捉えることができる。「崇高な原理はその起源を踏み越える」ように、この特権は個人の実体的権利として、すなわち「彼が私的な生活を送ることができる私的な領域をもつ権利」として、正当に認知されてきた。「その権利は我がデモクラシーの証しである。」United States v. Grunewald, 233 F. 2d 556, 589, 581-582 (Frank, J., dissenting), rev’d, 353 U.S. 391 (1957).われわれは近時自己負罪拒否の特権――わが当事者主義の不可欠の大黒柱――が、諸価値の複合に基礎を置くことを注意してきた。Murphy v. Waterfront Comm’n, 378 U.S. 52, 55-57, n. 5 (1964); Tehan v. Shott, 382 U.S. 406, 414-415, n12 (1966).これらのポリシーはすべて、一つの上位の思想を指し示している。すなわち、この特権のもとに横たわる憲法的な基礎は、政府――州であれ、連邦であれ――がその市民の品位と尊厳をまもるべく払わなければならない敬意の念というものである。「国家と個人との公正な均衡」を保つために、政府に「全ての責務を担うこと」8 Wigmore, Evidence 317 (McNaughton rev. 1961)を求めるために、人格の不可侵性を尊重するために、我が刑事司法における弾劾主義のシステム(accusatory system)は、個人の処罰を求める政府は自らの労力によってその証拠を見い出すべきであって、相手の口から証拠を引き出すことを強制するというような苛酷で簡便な方法に頼ってはならないことを要求するのである。Chambers v. Florida, 309 U.S. 227, 235-238(1940).要するに、個人が「何らの障害もなしに自らの意思に基づいて話すことを選択しない限り沈黙を保つことができる」という権利Malloy v. Hogan, 378 U.S.1, 8 (1964)を保障された時に初めて、この特権は実現されるのである。 本件における問題は、この特権が身柄拘束下の取調べの期間にも完全に適用されるかということである。この裁判所においては、この特権に対してリベラルな解釈が繰り返し与えられてきた。Albertson v. SACB, 382 U.S. 70, 81 (1965); Hoffman v. United States, 341 U.S. 479, 486 (1951); Arndstein v. McCarthy, 254 U.S. 71, 72-73 (1920); Counselman v. Hitchcock, 142 U.S. 547, 562 (1892). この特権に体現された原理のすべてが身柄拘束のもとで法執行官によってなされる非公式の強制に適用されるということにわれわれは満足する。慣れ親しんだ環境から警察拘禁へと追い立てられ、敵対する権力に包囲され、上述した各種の説得のテクニックにさらされている個人は、供述を強制されているという他はない。実際問題として、警察署の孤立した状況での供述の強制は、脅迫や策略を監視する公正な第三者がしばしば存在する法廷その他の公式の取調べの場所と比べて、その強制の度合いはより大きいと言うことができる[30]。 実際のところ、70年近く前にこの裁判所がブラム対合衆国Bram v. United States, 168 U.S. 532, 542 (1897)において次のように判示した時に、この問題は、連邦の法廷においては既に終結したと見なされてもよかったのである。 合衆国裁判所の刑事公判においては、自白が任意でないために許容されないか否かという問題が起こったときには常に、第5修正における何人も「いかなる刑事事件においても自己に対立する証人となることを強制されない」***との一節に照らして判断されなければならないのである。 ブラムにおいて、裁判所は英国とアメリカの歴史と判例法を振り返って、今日われわれが適用している、第5修正による強制の基準を記述した。 自白が任意のものが否かを示すに足りる証拠は何かを、判断された事例から引き出そうとする試みがもたらした混乱の多くは、証明の対象となる事柄についての誤解に由来する。基準とされるべきなのは、供述を許容するために供述の中の特定の発言が任意になされたことの証明が十分であるかどうかではなく、その供述をすることそれ自体が任意であったことの証明が十分であるかどうかなのである。すなわち、法的な見地から被告人の心の中に訴追を受けた犯罪に関して希望や恐怖を植え付けるに十分と思われる原因によって、被告人は不任意に供述するように仕向けられたのであって、かかる不適切な影響を受けなければ、彼は沈黙を保ったのである。***168 U.S., at 549. And see, id., at 542. 当裁判所はこの理由付けにその後もしたがった。1924年に、ワン対合衆国Wan v. United States, 266 U.S. 1.において、Brandeis裁判官は、強制された自白による有罪判決を破棄した全員一致の法廷意見のなかで、こう述べた。 連邦裁判所においては、自白が約束や脅迫によって引き出されなかったというだけでは、任意性の要件を満たしたとは言えない。法のもとにおいて、自白は、実際に任意になされたときに、そしてそのようなときにおいてのみ、任意といえるのである。拘禁されている間に警察官によってなされた質問に答えた場合であっても、自白は任意になされたといえる場合があるだろう。しかし、強制によって獲得された自白は排除されなければならないのであり、いかなるものでも強制の性格を持ちうるのであって、強制は裁判所の手続であれその他の手続であれ、行われうるのである。Bram v. United States, 168 U.S. 532. 266 U.S., at 14-15. この特権の拡張的な発展の歴史とその進化を促した健全なポリシーに加えて、このような裁判所の先例が、こうして、外界から遮断された取調べにこの特権が適用されることを明確に示しているのである。実際に、761号ウェストオーヴァー対合衆国において、政府もこの点を確立されたものとして認め、こう述べている。「われわれは、被疑者の第5修正による権利が身柄拘束中の法執行官による尋問によって侵害を受ける可能性があることについて***は疑いを抱いてはいない。」[31] 議会が連邦刑事訴訟規則5(a)(Rule5(a) of the Federal Rules of Criminal Procedure )を採用し、この裁判所がマクナブ対合衆国McNabb v. United States, 318 U.S. 332 (1947)とマロリー対合衆国Mallory v. United States, 354 U.S. 332(1957)において同規則を適用したために、過去四半世紀の間、われわれには連邦の取調べに関する憲法上の論点を検討する機会は殆どなかった。この特別規則は、被逮捕者を「不必要に遅滞することなく」コミッショナー(Commissioner)の前に引致することを要求し、かつこの制定法上の義務に違反して得られた証拠を排除するが、これらは、今われわれが州政府について考察を迫られているのと同じ第5修正のポリシーへの考察を反映したものである。マクナブにおいても318 U.S., at 343-344、マロリーにおいても354 U.S., at 455-456、われわれは取調べのもつ危険性と取調べの事実そのものに由来する予防策の妥当性とを了解したのである[32]。 マロイ対ホーガンMalloy v. Hogan, 378 U.S. 1(1964)におけるわれわれの決定は、州の事件においてもこの特権の適用範囲についての検討が必要なことを示した。マロイにおいて、われわれはこの特権が州に適用されることを明確に判示し、その実体的基準が州裁判所の手続に全面的に当てはまることを判示した。同事件では、マーフィ対ウォーターフロント委員会Murphy v. Waterfront Comm’n, 378 U.S. 52 (1964)やグリフィン対カリフォルニアGriffin v. California, 380 U.S. 609 (1965)のときと同じように、われわれの前にある事件に当時存在した第5修正の基準を適用した。マロイの判旨に加え、その理由付けは、既に表面化しつつあった事態――州事件における自白の許容性をめぐる実体的及び手続的安全装置は、この特権に内在する全てのポリシーを反映するものであり、非常に厳格に要求されるものとなったということ378 U.S., at 7-8[33].――を明白にしたのである。州事件における任意性の原則(voluntariness doctrine)は、マロイが示唆するように、個人をして自由で合理的な選択をなし得なくするおそれのある全ての取調べ実務を射程におくものである[34]。この命題の意味するものは、マロイがこの特権を州に適用した1週間後、エスコビード対イリノイでのわれわれの判決Escobedo v. Illinois, 378 U.S.478 の中で詳細に示された。 その判旨は、取調べの初めに警察官が被告人に対して沈黙を保つ憲法上の特権があることを助言しなかった事実を強調し、判決の中でわれわれは再三にわたってこの事実に対する注意を喚起したのである。378 U.S., at 483, 458, 491.このことは決して1個の孤立した要素ではなく、われわれの判決の中核をなすものであった。同事件における警察官の取調べの威力は、本件のすべての場合におけると同様に、被告人をしてその合理的判断の能力を阻害するような心理状態に置こうとすることに向けられていた。憲法上の特権の放棄――警察官に対して供述することの選択――は彼に対する諸権利の告知がなされなかったために、熟慮の上であるいは適切になされたものではなかった。被告人が供述することにしたのは、身柄拘束下の取調べの強制的雰囲気の故であって、彼自身の独自の決断によるのではなかった。 エスコビードのもう1つの重要な局面は、取調べ中弁護人が在席しなかった事実に着目した点である。エスコビードにおいて、本件と同様に、われわれは取調べにおける強制的雰囲気を払拭するための保護的措置を求めた。しかしながら、エスコビードにおいて警察は、彼らが取調室の中で生み出した被告人の切実な願いをかなえてやらなかった。彼らは、弁護士の助言を求める被告人の要請を拒絶したのである378 U.S., at 481, 488, 491.[35]。この行為が被告人のジレンマを増幅し、そして、その後になされた彼の供述を強制の産物たらしめるのである。Cf. Haynes v. Washington, 373 U.S. 503, 514 (1963).こうして、弁護人を求める被告人の要請を拒否したことが、この特権――望むなら沈黙を保つこと、あるいは、著しいか些細であるかを問わず、いかなる脅迫もなしに供述すること――を行使する被告人の能力を弱めたのである。本件のすべての事例において、弁護人の在席は、警察での取調手続をこの特権の要請に適合させるのに必要にして十分な保護的措置となりえたであろう。弁護人の存在は、政府主導の雰囲気の中で作られた供述が強制の産物とならないことを保証しえたであろう。 こうして、エスコビードは、当裁判所の多くの先例が認知してきた、公判前の特権のもう一つの側面、すなわち、公判段階での諸権利の保護という側面を解明するのである[36]。取調べ中に個人から供述が採取されるときに弁護人が立会うことは、明らかに裁判所における事実認定過程の廉潔性を高める。弁護人の立会いと個人に与えられる警告とは、これらなしには強制的と言える環境の中でも、被告人をして恐怖心なしに、効果的に自らのストーリーを語ることを可能にし、また取調べ過程に含まれる悪を除去する一助となる。十分な警告と弁護権による保護がないとすれば、「被告人によるのもであれその他のどんな証人によるものであれ、供述を提供する手続のために注意深く作られた安全装置は、空疎な形式になってしまうのであり、有罪のもっとも強力な証拠すなわち自白は、警察の思いのままに獲得できることになってしまうであろう。」Mapp v. Ohio, 367 U.S. 643, 685 (1961) (Harlan, J., dissenting). Cf. Pointer v. Texas, 380 U.S. 400 (1965). [第3部]今日、第5修正の特権が刑事裁判手続以外でも適用され、自己負罪を強制されない自由があらゆる意味において制約を受ける場面で個人を保護するものであることに疑問の余地はない。われわれは、適切な安全装置がない限り、犯罪を疑われあるいは犯罪の訴追を受ける人々に対する身柄拘束下の取調手続それ自体に個人の抵抗の意思を弱め供述を強要する強制的圧力が内在するという結論に達した。 この圧力を減殺し自己負罪拒否の特権を行使する十分な機会を保障するためには、被告人は自己の諸権利について十分かつ効果的な告知を受けなければならず、その権利の行使は十分に尊重されなければならない。 議会や州がこの特権を保護すべくその創造的な規則制定権能を行使して考案する代替的措置の内容をわれわれが予測することは不可能である。したがって、現在行われている取調べ手続に内在する強制について、憲法が特定の解決策への執着を要求していると言うことはできない。この判決は決して憲法の拘束服(a constitutional straitjacket)を作ろうという訳ではなく、われわれにはそのような意図はない。そうすることは改善への健全な努力を阻害するであろう。われわれは、議会や州が、刑罰法規の実効性を高めつつ個人の権利を擁護するより効果的な方策を探る努力を続けることを奨励するものである。しかしながら、少なくとも訴追を受ける者に彼らの沈黙する権利を知らしめかつその権利を行使する継続的な機会を保障する効果的な他の方法が示されない限りは、以下の安全装置が遵守されなければならないと考える。 まず第1に、身柄を拘束された者が取調べを受ける場合、初めに彼が黙秘権を有することを明確で疑問の余地のない用語で知らされなければならない。この特権を知らない者に対しては、それを知らしめるために――それは権利行使に関する知的判断を下すのに必要な第1の要件である。――警告を発することが必要である。さらに重要なのは、このような警告が取調べ環境に内在する圧力を克服するのに絶対に必要な条件であるということである。明示的であるか黙示的であるかに拘らず、自白が得られるまで取調べが続けられるとか、犯罪の嫌疑を前にして沈黙すること自体が咎められるべきであり陪審員がそれを知れば災いを招くであろうというような取調官の悪意の態度に屈服するのは、知的水準が低い者とか怖ろしく無知な者に限られる訳ではない[37]。さらに、警告は、特権を行使することを選ぶならば取調官はそれを了解する用意があることを個人に示さなければならない。 第5修正の特権は我が憲法規範のシステムにおいて非常に基本的なものであり、特権が行使できることを十分に警告するという手段は非常に単純なものであるから、われわれは個々の事例について被告人が警告なしに彼の権利を知っていたか否かを審査しないのである。年齢、教育程度、知的能力あるいは過去における官憲との接触等の情報に基づいてなされた被告人の知識の評定は、単なる推測以外の何物でもない[38]。警告は疑問の余地のない事実である。さらに重要なのは、取調べを受ける者の個人的背景がどんなものであれ、取調べに際しての警告はその圧力を克服し、彼が時期を失することなく自由に特権を行使できることを確実に知らしめるうえで欠くことのできないものであるということである。 黙秘権の告知は、いかなる供述も法廷において不利益に使用されうるという説明を伴うものでなければならない。この警告は、特権を知らせたうえさらにそれを放棄した結果を知らせるために必要なのである。特権に対する真の理解とその知的な行使は、これらの結果を了解して初めてなしうるのである。のみならず、この警告は個人をして彼が当事者主義のシステム(the adversary system)の一局面に直面しているのだということ――彼の周囲の人々は彼の利益のためだけに行動しているのではないということ――をより鋭敏に気付かせるのに役立つであろう。 身柄拘束下の取調べをめぐる環境は、単に取調官から特権を知らされたに過ぎない者の意思の上に素早くのしかかってくるであろう。それゆえ、取調べに弁護人を立会わせることは、今日われわれが示したシステムの下で第5修正の特権を保護するために欠くことのできないものである。われわれの狙いは、沈黙と供述との間の個人の選択権が取調べの全過程を通じて侵害されないことを確実にすることにある。やがて取調べを開始するだろう人物から1度警告を受けたからと言って、権利についての知識を最も必要とする人々にとってこの目的を達成させるのに十分ということはできない。取調官からの単なる警告だけではこの目的を達成するに不十分である。単なる黙秘権の告知は「常習犯や職業的犯罪者を利するだけである」ということを検察官自身が主張している。全国地方検事協会(National District Attorneys Association)の法廷の友としての趣意書14頁。弁護人によって予め与えられた助言でさえ、密室の取調べによって容易に打ち敗かされてしまうのである。Cf. Escobedo v. Illinois, 378 U.S. 478, 485, n. 5.したがって、第5修正の特権を保護するための弁護人の必要性というのは、取調べの前に弁護人と相談する権利のみならず、被告人が望むならば取調べの間弁護人を立会わせる権利をも包含するのである。 取調べに弁護人を立会わせることは、また幾つかの重要な副次的機能を持つ。被告人が取調官に対して供述する途を選んだ場合、弁護人の援助が虚偽の危険性を減殺するのである。弁護士が存在することによって、警察官が自白の強要を行なう蓋然性は減るだろうし、それにも拘らず強要が行なわれたならば弁護人はその事実を法廷で証言することができよう。弁護人の存在は、被告人が警察に対し十分正確な供述をし、またその供述が検察官によって公判廷に正しく伝えられることを保障する手だてとなろう。See Crooker v. California, 357 U.S. 433, 443-448 (1958) (Douglas, J., dissenting). 個人は、取調べの前に予め弁護人を請求しなければならないものではない。そのような請求は弁護士を得る権利を確実にするだろうがしかし、弁護士を請求しなかったからといってその権利を放棄したことにはならない。この判決に示された警告が与えられた後に具体的になされたのでないかぎり、有効な弁護権の放棄があったと解することはできない。自らの権利を知らず、それゆえ自ら請求できない被告人こそ弁護人を最も必要とする人物である。カリフォルニア州最高裁判所が適切に説示しているように。 そして最後に、請求することを義務づけることは、自分の権利を知らない被告人を差別するものであることをわれわれは知らねばならない。弁護人を請求しない被告人こそ、まさに弁護人を最も必要としている被告人なのである。自分の憲法上の権利を理解せずに、正式の請求をせず、請求しないことによって自らの無力を際立たせる被告人を、われわれは罰することはできない。請求を必要とすることは、自分の素養と地位がたまたま請求することを促したに過ぎない被告人を有利にすることである。People v. Dorado, 62 Cal. 2d 338, 351, 398 P. 2d 361, 369-370, 42 Cal. Rptr. 169, 177-178 (1965) (Tobriner, J.). カーンリー対コクランCarnley v. Cochran, 369 U.S. 506, 513(1962)において、われわれはこう判示した。「弁護人の援助が憲法上の要請であるとき、弁護人を付される権利が個人の請求の有無に左右されるものではないということに異論はない」。この命題は、取調べに際して被告人の第5修正の特権を保護するために弁護人を付するという文脈においても等しく当てはまるのである[39]。公判廷における弁護人の役割と取調べにおけるそれとは異なるが、この相違は請求が必要かどうかという問題とは関係がない。 したがって、取調べのために拘束された者は、この判決に示されている特権擁護のシステムの下で弁護士と相談しかつ取調中彼を同席させる権利を有することを明確に知らされなければならないとわれわれは判示する。黙秘権の告知並びに供述が不利益な証拠として使用されうることの告知と並んで、この告知は取調べの絶対的要件である。個人がこの権利を知っていたことを示すいかなる状況証拠も、この告知に取って替わりうるものではない。このような告知を通じてのみ、被告人が確実にこの権利を知っていたことを確認しうるのである。 もしも個人が弁護人の援助を求める意向をいかなる取調べの前にも示したならば、彼が現に弁護人を持っていないかあるいは弁護士を雇う資力がないことを理由にこの要請を無視したり拒否したりすることは許されない。個人の財政的能力はここで問題となる権利の範囲と何らの関係もない。憲法で保障された自己負罪拒否の特権はすべての個人に適用されるのである。この特権を保護するための弁護人の必要性は、裕福な者にも貧乏人にも等しく存在するのである。実際問題として、これらの憲法上の権利が弁護人を雇うことができる者にのみ享受されるとすれば、今日のこの判決の意味は殆どなくなるであろう。過去においてわれわれが扱った自白に関する事件の大多数と同様、本件も弁護人を雇うことのできない者の事件である[40]。捜査官憲は貧しい被告人に援助の手を差しのべる必要はないが、しかし彼らは司法運営において貧困を利用してはならない義務を負っているのである[41]。ギデオン対ウェインライトGideon v. Wainwright, 372 U.S. 335(1963)やダグラス対カリフォルニアDouglas v. California, 372 U.S. 353(1963)で打ち破られた公判あるいは上訴での状況と異なり、取調べの段階では資力ある者に弁護人が認められ貧しい者にはこれが拒否されるということを支持しうる理由も理屈もない。 そして、取調べを受ける者にこのシステムの下での権利の内容を十分に知らせるためには、弁護士と相談する権利があるというだけでなく、無資力の者は弁護人を選任してもらう権利があるということも告知される必要がある。この付属的告知がなされないならば、弁護人と相談する権利の告知は、単に弁護士が既にいるかあるいはこれを雇う財源があるならば弁護士と相談しても良いという趣旨にしばしば理解されてしまうだろう。弁護権の告知は、貧しいもの――最もしばしば取調べを受ける者――に対して、彼もまた弁護人の立会いを求める権利があるのだという知識を与えるような表現でなされるのでなければ、空虚なものになるだろう[42]。黙秘権と弁護権一般の告知とともに、無資力者に対するこの権利の効果的かつ明示的な説明がなされることによって初めて、真実彼が権利行使しうる立場にいることが保障されるのである[43]。 これらの告知がなされた後の手続は明白である。取調べの前あるいは取調べ中のどの段階であれ、個人が黙秘したい旨をいかなる方法でも示したならば、取調べは中止されなければならない[44]。この時彼は第5修正の特権を行使する意思を表明したことになるのである。特権を援用した後に得られた供述は、程度の差はどうあれ強制の産物以外の何物でもない。質問自体を中止させる権利がないならば、身柄拘束下の取調べという状況は、特権発動後も供述をさせるように個人の自由意志の上に作用するだろう。もしも個人が弁護士を求めると述べたならば、弁護士が現れるまで取調べは中止されなければならない。そのとき、個人は弁護士と相談する機会を与えられ、かつその後のいかなる尋問の間にも弁護士を立会わせる機会が与えられなければならない。もしも個人が弁護士を得ることができず、しかし警察に供述する前に弁護士を得たいとの意向を示したならば、警察官は彼の黙秘するという決断を尊重しなければならない。 このことは、一部において提案されているような、各々の警察署が「留置場付き弁護士(station house lawyer)」を常置させ被拘禁者の相談にあたらせるべきであるということを意味するものではない。しかしながら、それは、警察が個人を取調べようとするときには、彼らは彼に対し弁護士を得る権利があること及び自ら獲得できないときは取調べの前に彼のために弁護士が用意されるであろうことを知らしめなければならないということを意味するのである。捜査官憲が、捜査活動を遂行する合理的な期間弁護士を付与すべきでないとの結論に達した場合、その間彼らが個人を取調べない限り、彼らは第5修正の特権を侵害することなしに彼に弁護士を付与しないことができる。 弁護士の立会いなしに取調べが続行され供述が得られた場合、政府は被告人が熟慮のうえでかつ理性的に自己負罪拒否の特権と私選又は官選の弁護人を得る権利を放棄したことを示す重い責任を負担することになる。Escobedo v. Illinois, 378 U.S. 478, 490 n. 14.この裁判所は常に憲法上の権利の放棄に関して高度の立証の基準を設定してきた。Johnson v. Zerpst, 304 U.S. 458 (1938). そして、われわれはこの基準が身柄拘束下の取調べにも当てはまることを改めて表明するものである。取調べが行われる孤立した環境を設置しているのは政府であり、また、外界から遮断された取調べの間に告知がなされたことを示す確かな証拠を入手しうるのも政府であるから、この立証責任はその肩に担わされるのが正当である。 供述する意思がありかつ弁護士を欲しない旨の明示的な供述がなされ、その後ほどなくして供述がなされたときは放棄があったと解することができる。しかしながら、警告が与えられた後被告人が単に沈黙したということや最終的に自白が獲得されたという単純な事実から、有効な放棄がなされたことを推定することはできない。カーンリー対コクランCarnley v. Cochran, 369 U.S. 506, 516 (1962)におけるわれわれの説示はここでも妥当する。 沈黙の記録から放棄を推測することは許されない。記録中において、すなわち、そのなかの主張と証拠によって、被告人が弁護人の付与を申出られながら、理性的に熟知のうえでこの申出を拒否したことが示されなければならない。それに満たないものはいかなるものも放棄ではない。 See also Glassar v. United States, 315 U.S. 60 (1942).さらに、身柄拘束下の取調べが問題となる場合においては、個人が取調べ中に彼の黙秘権を行使する前に、いくつかの質問に答えあるいは彼自身から情報を提供したとしても、特権が放棄されたと解する余地はないのである[45]。 被告人が権利を放棄したとする捜査官憲の証言がいかなるものであれ、供述がなされる前の長期間の取調べや外界から遮断された拘禁(incommunicado incarceration)は被告人が有効に諸権利を放棄しなかったことの強力な証拠である。このような状況下では、最終的に個人が供述したという事実は、取調べの強制的影響力がついに彼を供述に追い込んだという結論と符号する。それは、特権の任意的な放棄という観念といかなる意味でも矛盾する。さらに言えば、被告人が脅され、詐されあるいは丸め込まれて放棄したことを示すいかなる証拠も、勿論、彼が特権を任意に放棄しなかったことを示すのである。権利の告知と放棄の要請は第5修正の特権にとって基本的なものであり、現在行われている取調べの方法のための事前の儀式ではない。 この判決に従って要求される告知と必要な放棄は、十分効果的な代替手段がない限り、被告人のどのような供述を証拠として許容するためにも必要な条件である。直接的な自白(confessions )と犯罪の一部または全部の自認(admissions)との間に区別をつけることは不可能である。自己負罪拒否の特権は、いかなる意味においてであれ自らを罪に陥れることを強制されることから個人を守るのである。それは負罪の程度を区別しない。正にこれと同じ理由から、帰罪的な(inculpatory )供述と単に「免罪的(exculpatory )」といわれる供述との間に区別を付けることもできないのである。もしも供述が真に免罪的なものであるならば、検察官は勿論それを決して使用しないだろう。実際には、単に弁解のためになされた被告人の供述も、公判での彼の証言を弾劾しあるいは取調べ段階の供述の虚偽を示して、暗示的に有罪を立証する目的でしばしば用いられるのである。これらの供述はいかなる意味においても供述者を罪に陥れるものであり、他の供述において要求されるのと同等の十分な告知と有効な放棄なしには使用することが許されないのである。エスコビードにおいて、被告人は、もう一人の人物を殺人者と名指しすることによって、彼自身は免罪されるとばかり思っていたのである。 今日宣言された諸原則は、警察留置場に拘留されまたは他のいかなる方法においてもその行動の自由を奪われた個人が最初に取調べの対象となった際に、自己負罪拒否の特権に対して与えられるべき保護を問題にするものである。この時こそ、わが当事者主義の刑事手続のシステム(adversary sysmetem of criminal proceedings)が開始されるのであり、それは他の国々に見られる糺問主義のシステム(inquisitorial system)と初めから相違するものである。われわれが今日説示した告知のシステムあるいは効果のある別のシステムの下で、特権のために組み立てられた安全装置はこの時点でその役割を果たさなければならないのである。 われわれの判決は、犯罪捜査における警察官の伝統的な機能を妨げることを意図するものではない。See Escobedo v. Illinois, 378 U.S. 478, 492.個人が相当の嫌疑に基づいて身柄を拘束されているときに、警察は勿論、公判廷で被告人に不利益に使用すべき証拠を捜査活動を通じて捜し求めることができる。このような捜査のなかには、身柄を拘束されていない人の調査も含まれる。犯罪をとりまく事実についての一般的な現場質問(on-the-scene questioning )あるいは事実探究過程での市民への一般的な質問は、われわれの判旨によって影響を受けるものではない。法の執行に援助を与えることになる情報をいかなるものであれ提供するということは、責任ある市民の行動である。こうした状況においては、身柄拘束下の取調べ手続に内在する強制的雰囲気は必ずしも存在しない[46]。 取調べを通じて得られた供述に関し、すべての自白が許容性を欠くのだと言う意図はわれわれにはない。自白は依然として法の執行における適切な要素である。何らの強制による影響をうけることなく、自由かつ任意になされた供述は、勿論証拠として許容される。個人が身柄拘束を受けている際のこの特権の基本的重要性は、彼自身に警告や弁護人の援助なしに供述することを許すか否かにあるのではなく、彼を取調べることができるか否かにある。警察署を訪れ犯罪を告白したいと述べる者[47]や、警察に連絡し自白その他の供述を申し出る者を警察官はあえて押し止める必要はない。いかなる種類の自発的供述も第5修正の制約を受けないし、今日のわれわれの判示によってその許容性は影響を受けない。 要約すると、われわれは、個人が身柄を拘留されまたは他のいかなる手段によってであれその自由を奪われ、尋問の対象とされた時、自己負罪拒否の特権は危険にさらされる、と考える。この特権を保護するために手続的な安全装置が必要であり、個人に黙秘権を知らしめかつその権利行使が注意深く尊重されることを確実にする他の十分効果的な手段が採用されない限り、以下の方法が必要である。いかなる質問にも先立って、黙秘権があること、いかなる供述も法廷で不利益に使用されうること、弁護士を立会わせる権利があること、そして弁護士を雇う資力がなければ望むならば質問の前に弁護士が選任されること、が告知されなければならない。これらの権利を行使する機会は取調べの全過程を通じて与えられなければならない。このような告知がなされかつこのような機会が与えられた後に、個人は熟慮のうえで理性的にこれらの権利を放棄し質問に答えあるいは供述することに同意することができる。しかし、このような告知と放棄がなされたことを検察官が公判で示さない限り、取調べの結果得られたいかなる証拠も被告人に不利益に使用されてはならないのである[48]。 第4部本件で度々なされた議論は、取調べに対する社会の要請はこの特権よりも重いというものである。この議論はこの裁判所にとって目新しいものではない。See, e.g., Cahmbers v. Florida, 309 U.S. 227, 240-241 (1940). われわれの今までの議論は、第5修正のなかに個人は自己に不利益な証人となることを強制されないと規定されたとき、憲法は政府の権力と直面した個人の権利を規定したものにほかならないことを明らかにしている。この権利は減縮されてはならない。かつてBrandeis裁判官が指摘したように。 礼譲、安全そして自由、これらはみな政府の職員が、市民が従うべき行動の基準と同じ基準に従うべきことを要求する。法に基づく政府においては、政府が良心的に法に従わないとすれば、その存続が危ぶまれるのである。われわれの政府は、有力なそして偏在する教師である。良きにつけ悪しきにつけ、それは、自身を例示して全人民を指導する。犯罪は感染する。政府が法を破れば、法への軽蔑が育まれる。それは全ての人が自身の法である事態を招来する。無政府状態を招来するのである。刑事法の運用においては目的が手段を正当化するのだと宣言するならば、***悲惨な報いがもたらされるであろう。このような破壊的な考えに対して、この裁判所は断固として立ち向かわなければならない。Olmstead v. United States, 277 U.S. 438, 485 (1928) (dissenting opinion).[49] この点について我が国の著名な法律家の1人が次のように指摘している。「一国の文明の質はその刑罰法の執行手続を見ることによって概ね判断することができる。」[50] 個人が彼の特権を行使したいと欲するとき、彼はそうする権利があるのである。これは捜査官憲が決めるべきことではない。弁護士は彼自身が事件を調査する機会を得るまで依頼者に対して警察には何も供述しないようアドバイスすることができるし、警察のいかなる尋問にも依頼者と同席する意向を示すこともできる。そうすることによって、弁護士は彼が学んだ良き専門家としての判断(the good professional judgement )を実践しているにすぎないのである。このことは弁護士を法執行に対する脅威と考える理由にはならない。彼は自ら誓約した職務――彼の能力の限り依頼者の権利を擁護すること――を遂行しているに過ぎないのである。この職責を全うすることによって、弁護士はわが憲法の下における刑事司法の運営において不可欠の役割を演じているのである。 これらの原則を宣言する際に、われわれは、法執行官がしばしば困難な状況の下で負わなければならない職責に無関心でいる訳ではない。すべての市民が刑罰法の執行に協力する義務を負っていることもまたわれわれは十分理解している。この裁判所は、個人の権利を擁護しつつ、法執行機関がその義務を適法に遂行する際に広範な裁量権を有することを認めてきたのである。取調過程の上にわれわれが課してきた制約は、法執行の適切なシステムを不当に制約するもであってはならない。既に注意したように、われわれの判決はいかなる意味でも警察がその伝統的な捜査機能を遂行することを妨げるものではない。自白はある種の有罪判決にとっては重要な役割を果たすのかもしれないが、われわれの前にある事件は、自白の「必要性」なるものが過大に言われてきたことを生き生きと示す好例を提供する。それぞれの事件において、捜査官憲は、標準的な捜査活動を通じて、各被告人に不利益な相当量の証拠を獲得しながら、最高5日間にわたる取調べを行った[51]。その他の例は、われわれの今までの先例のなかに記録されている。See, e.g., Haynes v .Washington, 373 U.S. 503, 518-519 (1963); Rogers v. Richmond, 365 U.S. 534 ,541 (1961); Maliski v. New York, 324 U.S. 401, 402 (1945).[52] 取調べのために拘禁する十分な権利は、しばしば、尋問を受ける者にとって有利な結果をもたらすものであるから、認められるべきであるということも、主張されている。警察の取調べによってその人がいかなる犯罪も犯していないことがはっきりすれば、彼はそれ以上正式の手続を受けることなく、解放されるであろう、と言うのである。しかしながら、何の罪も犯していない人は、警告を受けた後弁護人立会いのもとで取調べを受ける方が、そうでない場合よりも、彼の嫌疑を晴らすことがより良くできるであろう。そのような状況の下において、弁護士は、依頼人に対して嫌疑を晴らすために自由に警察に話をするように助言するであろう。 反対に、身柄拘束下の取調べは、無実の者に嫌疑を晴らす機会を常に与えるとは限らない。無実の者にとって利益であると言われる現在の取調べ実務は、「捜査のために」多くの逮捕がなされ、大量の無実の者を拘禁と取調べの対象にするという深刻な結果をもたらすのである。われわれの前にある事件の一つ、第584号カリフォルニア対スチュワートにおいては、警察は、逮捕の際に被告人宅にいた4人を逮捕し、被告人が自白するまで5日間彼らをジェイルに拘禁した。彼らはその時になってようやく釈放された。警察は、「彼らを何らかの犯罪に結び付ける証拠はなかった」と言っている。このような実務がどの程度許容されているかに関する、入手可能な統計によれば、この4人が一つの例外として相当の嫌疑の要件なしに逮捕され、不当に長期にわたって拘禁され、そして取調べを受けたなどとは到底言えないのである[53]。 連邦捜査局は、多年にわたって、次のような助言を被疑者あるいは逮捕された者に与えながら、模範的な法執行の記録を積み重ねてきた。すなわち、面接のはじめに、供述する必要がないこと、いかなる供述も裁判所において彼にとって不利益な証拠として使用されうること、個人は彼の選択した弁護士のサーヴィスを受けられること、そしてさらに最近では、支払能力がないない場合には無料の弁護人を得る権利があること、を助言してきたのである[54]。連邦訟務長官が当裁判所の質問に答えて発送した手紙によると、FBIの実務として現在実践されている、個人の諸権利の告知とその尊重の方式は、今日われわれが説示した手続と符合するものであることが明らかである。手紙はこう言っている。 上記事件の口頭弁論の際に、Fortas裁判官は、私が連邦捜査局が行っている実務について情報を提供できるかどうかお尋ねになりました。私は、その質問を連邦捜査局長官が取り扱うように指示し、ここに私が質問の内容と私どもが受領したそれに対する答えを提出いたします。 「(1) 貴局の捜査官が個人に面接するとき、いかなる警告が彼に与えられるか? 「ながらくFBI特別捜査官によって被疑者及び逮捕された者に与えられてきた標準的な警告は、その者が何も話さない権利及び弁護人の権利があること、そして、彼がなしたいかなる供述も裁判所において彼に不利益な証拠として利用される可能性があること、です。この警告の例は、ウェストオーバー事件at 342 F. 2d 694 (1965)とジャクソン対合衆国Jackson v .U.S., 337 F. 2d 136 (1964), cer. den. 380 U.S. 935.に見られます。 「連邦事件の被告人に対して無料の弁護人を付与することを規定した1964年刑事司法法(Criminal Justice Act of 1964)が議会を通過した後は、私どもは、特別捜査官に対する指示に次の要求を付け加えました。FBIの管轄権の及ぶ犯罪により逮捕されたいかなる者に対しても、また、面接後に逮捕されることが予想されるいかなる者に対しても、もしも彼に支払能力がないときには無料の弁護人を得る権利があること、並びに、裁判官によってかかる弁護人が任命されるであろうことを、付加して助言しなければならない、ということです。それと同時に、私どもは、弁護権に関する告知を拡張して、彼自身の選択する弁護人、あるいはその他彼が話したいと望むいかなる者をも含めるようにしました。 「(2) その告知はいつなされるか? 「先に引用したウェストオーヴァー事件が示すように、FBIの告知は、面接のはじめに被疑者に与えられます。また、上記に引用したジャクソン事件や合衆国対コニスバーグU.S. v. Konigsberg, 336 F. 2d 844 (1964), cer. den. 379 U.S. 933が示すように、告知は逮捕後できるだけ早い時機に被逮捕者に与えられます。しかしいずれの場合も、告知は、自白や有罪の自認を得るための面接の前になされなければなりません。 「(3) (a)個人が弁護人を求めたとき、そして(b)弁護人が現れたとき、の貴局の実務はどのようなものであるか? 「弁護権を告知された個人が、供述をする前に弁護人と相談したいと決めたときには、面接はその段階で停止されます。Shultz v. U.S., 351 F. 2d 287 (1965).しかし、その個人の有罪無罪に関係しない全ての事柄に付いては、それでも取調べを続行することができます。彼が弁護人の要請をするかどうか決め兼ねている場合は、彼が弁護人の権利を放棄するのかどうかに関する幾つかの質問をすることがあります。この種の状況については、面接をする捜査官の判断に委ねられます。例えば、ハイラム対合衆国Hiram v. U.S.,. 354 F. 2d 4 (1965)において、問題の被逮捕者が彼の弁護権を放棄したものと結論した捜査官の判断は、裁判所によって支持されました。 「コードウェル対合衆国Caldwell v. U.S., 351 F. 2d 459 (1965)に示されているように、取調べを受けながら弁護人と電話で相談することを希望する者には、そうすることが許されなければなりません。弁護人が現れたときには、彼は依頼人と秘密に相談することが認められます。 「(4) 個人が弁護人を要請したが、弁護士を雇う資力がない場合に関する貴局の実務はどのようなものか? 「取調べを受ける者が、弁護人に関する告知を受けた後に、手続を先にすすめる前に弁護人と相談したいと決断したときには、先に述べましたように、面接は中止されます。FBI捜査官は、弁護士費用を支払う個人の能力について判断することはいたしません。しかし、彼らは、FBIの管轄に属する犯罪によって逮捕された者に対して、あるいは、面接後逮捕されることが予想される者に対しては、もしも彼らが支払う能力がないならば無料の弁護人を得る権利があること、そして、そのような弁護人は裁判官がつけてくれるだろうことを助言します。」[55] FBIの実務は州や地方の法執行機関においても採用できるものである。FBIが取り扱う犯罪は州の当局が取り扱うものとは異なるという主張は、FBIの経験の重要さを減殺するものではない[56]。 また、幾つかの他国の経験は、取調べの規制が法執行に危険をもたらすという考えが過剰な反応であることを示唆する。裁判官準則(the Judges’ Rules)の下での1912年以来のイングランドの実務は重要である。最近強化されたその準則は、嫌疑を抱く合理的な根拠を示す証拠を獲得した警察官はすぐに、被告人に対して注意的な警告を発しなければならないことを要請している。準則はまた、供述は警察による尋問なしに被告人から提出されなければならないことも要請している[57]。この期間における個人の弁護士と相談する権利は、明文で認められている[58]。 スコットランド法に現在ある安全装置は、イングランドのそれよりも大きいとすら言える。スコットランドの裁判所の諸判決は、警察の取調べによって得られた自白の殆どを証拠として採用することを阻止している[59]。インドでは、英国法が施行された1872年以降の証拠規則によって、マジストレートの立会いなしに警察になされた自白は排除されている[60]。全く同じ条項がセイロン証拠条例(Evidence Ordinance of Ceylon)に見られる[61]。同様に、わが国の軍事司法統一法典(the Uniform Code of Military Justice)においても、被疑者は、はじめに供述をしない権利があること及び彼のなした如何なる供述も彼に不利益に使用されうることを警告されなければ、取調べを受けないことが長きにわたって規定されているのである[62]。取調べ中に弁護人と相談する権利を拒絶することも、軍事裁判所によって禁止されている[63]。これらの規則によって以上の法域における刑罰法の執行に有害な影響が発生しているようには見受けられない。わが国の法執行の諸条件は、この経験を、個人に彼の諸権利を告知することや彼にその権利行使を認めることによって、無法状態が招来されるわけではないことを確認するものとして、参照できるほどに十分類似している。さらに言えば、上述した法域において与えられている諸権利に対する保護と少なくとも同等の保護をわれわれが与えることは、われわれの法制度に適合するものである。わが国においては憲法第5修正の個別の要請に基づいてこれらの諸権利を取り上げるに対して、他の法域においては、これほど具体的に定義されてはいない、正義の原理に基づいてその結論に到達しているのである[64]。 また、州の立法府とその諮問機関がその規則制定権によってこれらの諸問題を取扱う機会を得るまで、われわれはこの問題についての決定を出すのを差し控えるべきであるとの主張がなされている[65]。身柄拘束下の取調べの間に自己負罪拒否の特権を保護するために、特定の手続法典を憲法が要請しているわけではないことは、既に指摘した。連邦議会や州政府は、訴追を受ける者に黙秘権を知らしめ、かつそれを行使する継続的な機会を保障する上において、上述したものと同様に充分効果的なものである限り、この特権のために彼ら独自の安全装置を開発することは自由である。しかしながら、いずれにせよここで提起されている問題は、憲法次元のものであって、裁判所によって決定されなければならないのである。被告人の憲法上の権利を侵害して得られたと訴えられている供述の許容性の問題は、長い間にわたってこの裁判所によって解決されてきた問題なのである。See Hopt v. Utah, 110 U.S. 574 (1884).憲法次元の諸問題の裁判所による解決は、10年単位で進化してきた。裁判所は、憲法上の諸権利を執行する必要を提起されたとき、そうするための方法を見出してきたのである。それこそ、エスコビードを前にしたときのわれわれの職責であったのであり、また、今日のわれわれの職責なのである。憲法が保障する権利が問題となるとき、それを廃棄しうる如何なる規則制定権も立法権も存在しえない。 第5部問題の性質のゆえに、そして、多数の事例において繰り返されるその重要さのゆえに、われわわれは、ここまで、本件の事実関係に特に焦点をあてることなしに、第5修正の特権と警察の取調べとの関係を論じてきた。いまから、上述した憲法上の原則の本件への適用を検討するために、事実関係に目を転じよう。われわれは、各事件において、供述は特権を保護するための憲法上の基準を満たさない状況のもとで被告人から採取された、と結論する。 第759号 ミランダ対アリゾナ 1963年3月13日、申立人アーネスト・ミランダは自宅で逮捕され、フェニックスにある警察署に拘禁された。そこで彼は、被害者によって犯人として識別された。それから警察は彼を刑事課の「第2取調室」に連れて行った。そこで彼は2人の警察官によって取調べを受けた。この警察官らは、公判廷において、ミランダに対して弁護士を立会わせる権利を助言しなかったことを認めた[66]。2時間後、警察官はミランダの署名のある自白調書を持って取調室から出てきた。その供述調書の冒頭には、この自白は脅迫や免責約束なしに任意になされたものであり、そして「自分の法的な権利を十分に熟知し、私のいかなる供述も私に不利益に使用されうることの了解の下に」供述するものであるという、タイプされた一節があった[67]。 陪審を前にした公判で、この自白調書は、弁護人の異議を退けて証拠として採用され、問題の警察官は、取調べ中にミランダがした従前の口頭の自白を証言した。ミランダは誘拐と強姦により有罪を宣告された。上訴審において、アリゾナ州最高裁判所は、自白を採取する際にミランダの憲法上の諸権利が侵害されたことはないとして、有罪判決を承認した。98 Ariz. 18, 401 P. 2d 721.その結論に達する上において、裁判所はミランダが弁護人を求める具体的な申し出をしなかった事実を強調した。 われわれは原判決を破棄する。警察官の証言からも、また、被申立人自身が認めていることからも、ミランダが如何なる意味でも弁護士と相談する権利及び取調べ中弁護士を立会わせる権利を告げられなかったことは明らかであり、また、自己負罪を強制されない彼の権利が他のなんらかの方法で効果的に守られたとは言えないことも明らかである。これらの警告なしには、この供述は許容され得ない。自分の「法的権利」について「充分熟知」しているというタイプされた一節を含む供述調書に彼が署名したという単なる事実は、憲法上の諸権利を放棄する際に要求される熟知と理性に近似したものとは言えない。Cf. Haynes v. Washington, 373 U.S. 503, 512-513 (1963); Haly v. Ohio, 332 U.S. 596, 601 (1948) (opinion of Mr. Justice Douglas). 第760号 ヴィグネラ対ニューヨーク 申立人マイケル・ヴィグネラは、1960年10月14日ニューヨーク市警察によって、3日前にブルックリンの洋品店で発生した強盗の容疑で検挙された。警察は、彼をマンハッタンの第17刑事班本部に連れてきた。その後彼は第66刑事班に連行された。そこで刑事がヴィグネラに問題の強盗事件について尋問した。ヴィグネラは、その刑事に強盗を認めた。その刑事は、公判での弁護人からの反対尋問の際に、ヴィグネラは取調べを受けるときに弁護権を告知されたのかどうか質問された。検察官はこの質問に異議を申し立て、公判裁判官はこの異議を認めた。こうして、弁護側は、問題の告知が与えられなかった事実を示す機会を奪われた。第66刑事班にいる間に、ヴィグネラは、その洋品店の店主と女店員によって、洋品店を襲った強盗犯人として識別された。午後3時、彼は正式に逮捕された。今度は警察は彼を「拘禁のために」もう一つ別の警察署すなわちブルックリン第70分署に移送した。午後11時、ヴィグネラは、検察官の尋問を受けたが、それには、速記者が立会い、質問とヴィグネラの答えを逐語的に記録した。これらの手続を記録したこの逐語録には、その検察官によって与えられたいかなる警告も含まれていない。ヴィグネラに対する第1級強盗事件の公判で、刑事は口頭の自白について証言した。供述の逐語録も証拠として採用された。証言が終わったときに、公判裁判官は陪審への説示のなかでこう述べた。 警察が被告人に彼の権利を助言しなかったからと言って、その自白が無効になるとか、有効でないとか、法律は言っていません。私の言ったことが聞こえましたか?私は、皆さんに、ニューヨーク州の法律がどうなっているかを述べているのです。 ヴィグネラは第1級強盗罪により有罪を宣告された。その後彼は別の3級重罪で有罪となり、30年から60年の拘禁刑を言い渡された[68]。この有罪判決は、ニューヨーク州控訴部裁判所第2部(Appellate Division, Second Department)によって理由を付さずに承認され、21 App. Div. 2d 752, 252 N. Y. S. 2d 19上訴裁判所(Court of Appeals)もまた理由なしに承認した。15 N. Y. 2d 970, 207 N. E. 2d 527, 259 N. Y. S. 2d 857, remittitur amended, 16 N. Y. 2d 614, 209 N. E. 2d 110, 261 N. Y. S. 2d 65.上訴裁判所での弁論において、州は、ヴィグネラには彼の弁護権や自己負罪拒否特権の助言を受ける憲法上の権利はないと主張した。 われわれは原判決を破棄する。以上の経過は、ヴィグネラが尋問を受ける前に、彼の諸権利を刑事からも検察官からも告知されなかったことを示している。こうして、彼は、彼の第5修正の特権や弁護人を立会わせる権利を効果的に知らされなかったのであり、彼の供述は許容され得ない。 第761号 ウェストオーヴァー対合衆国 1963年3月20日午後9時45分ころ、申立人カール・カルヴィン・ウェストオーヴァーは、カンサス・シティで発生した2件の強盗事件の嫌疑により地元の警察により逮捕された。さらに、彼がカリフォルニアで起こった重罪事件で手配中である旨のFBIからの報告が届いた。地元警察は、ある警察署に彼を連行し、地元の事件についてラインナップを実施し、午後11時45分ころに留置した。カンサス・シティの警察は逮捕の晩ウェストオーヴァーを取調べた。彼は犯罪について何も知らないと述べた。翌日地元の警察官は、再び彼を午前中一杯取調べた。正午少し前、彼らはFBIに、彼らによるウェストオーヴァーの取調べは終わり、FBIが彼の取調べに入ることができると告げた。地元警察がウェストオーヴァーに対して彼の権利について何らかの警告をしたことを示すものは記録上存在しない。正午には、3人のFBI特別捜査官が、カンサス・シティ警察署の外部から遮断された取調室で取調べを続けていた。このときの取調べは、カリフォルニア州サクラメントで起こった貯蓄貸付組合と銀行での強盗事件に関するものであった。2時間あるいは1時間半後、一人の捜査官が取調べ中に作成した、この2件の強盗事件に関する自白調書それぞれに、ウェストオーヴァーは署名した。一人の捜査官の公判証言及び公判で採用されたこの供述調書の1節によれば、捜査官は、ウェストオーヴァーに対して、彼には供述する義務はないこと、彼の如何なる供述も彼に不利益に使用されうること及び彼には弁護士の面会を受ける権利があることを助言したとのことである。 ウェストオーヴァーは連邦裁判所で陪審による公判を受け、2件のカリフォルニアの強盗事件について有罪を宣告された。彼はそれぞれの訴因に付いて15年の拘禁刑を言い渡され、2つの刑期は合算されることになった。上訴審において、第9巡回区控訴裁判所は、有罪判決を維持した。342 F. 2D 684. われわれは原判決を破棄する。本件の事実関係に照らして、ウェストオーヴァーが熟慮のうえで理性的に、彼の黙秘権及び供述する前に弁護人と相談する権利を放棄したことを認定することは不可能である[69]。FBI捜査官がウェストオーヴァーに対する尋問を開始したとき、彼は既に14時間以上拘禁され、そして、その間長時間の取調べを受けていたのである。FBIの取調べは、カンサス・シティの警察の取調べが終了した直後に開始され、しかもそれは地元の警察本部で行われたのである。2つの法執行機関は法的には別々のものであり、ウェストオーヴァーに対する取調べはそれぞれ別の犯罪に関するものであったが、しかし、彼の上に降りかかる影響は、継続的な尋問によるものに他ならない。FBIの取調べの前に何らかの警告がなされたという証拠はないし、FBIが取調べを開始した後に、権利放棄が表明されたことを示す如何なる証拠もない。記録は、単に、地元警察の取調べに引続いて身柄がFBIに渡された後まもなくして被告人が自白した事実を示すだけである。FBI捜査官が彼らの取調べのはじめに警告を発したのが事実であるとしても、ウェストオーヴァーの立場から見れば、その警告は、一連の取調べ手続の最終段階で与えられたものなのである。このような状況のもとでは、憲法上の諸権利の理性的な放棄があったと推測することはできない。 われわれは、個人がある官憲によって一定期間拘禁され、彼らが適切な警告をせずにその個人を取調べた場合、別の法執行機関はその個人を取調べることができない、と言うつもりはない。もしも被告人が第2の官憲によって拘禁され、当初の状況とは時間的にも場所的にも隔絶され、そして、彼の諸権利について十分な助言を与えられ、かつその諸権利を行使する機会が与えられたとすれば、事態は異なったものとなったであろう。しかし、本件では、FBIの取調べは、州の取調べの直後に同じ警察署で行われた――すなわち、同じ強制的な環境のもとで行われたのである。したがって、ウェストオーヴァーから自白を獲得する際に、連邦官憲は、地元官憲による身柄拘束下の取調べによって加えられた圧力を利用したことになるのである。こうした状況においては、単に警告を与えたというだけでは、特権を保護するのに充分とは言えない。 第584号 カリフォルニア対スチュワート 連続引ったくり強盗事件(purse-snatch robberies)が発生し、一人の被害者は犯人から受けた暴行により死亡した。この事件の捜査の過程で、問題の強盗うちの1件の被害品である小切手を裏書きした人物として、被申立人ロイ・アレン・スチュワートがロサンジェルスの警察に通報された。1963年1月31日午後7時15分ころ、警察官はスチュワートの自宅に行き、彼を逮捕した。警察官の一人がスチュワートに家を捜索しても良いか尋ねたところ、彼は「どうぞ」と答えた。この捜索によって、5人の強盗被害者から奪われた種々の物件が発見された。スチュワートを逮捕すると同時に、警察は彼の妻と当時彼の家を訪れていた3名の者を逮捕した。この4人は、スチュワートと共に拘禁され、取調べを受けた。スチュワートは、ロサンジェルス市警大学分署に連行され、そこの房に入れられた。これに続く5日間に、警察は前後9回にわたってスチュワートを取調べた。被害者と対面させられた最初の取調べのときを除いて、いずれの取調べの際もスチュワートと取調官以外の者は立会わなかった。 9回目の取調べの際に、スチュワートは亡くなった人に対する強盗を認め、彼女を傷つけるつもりはなかったと述べた。そうして、警察はスチュワートを初めてマジストレートの前に連れていったのである。そしてまた、警察は、彼と共に逮捕された他の4人を何らかの犯罪に結び付ける証拠も見当たらなかったので、彼らを釈放した。 スチュワートが黙秘権や弁護権について助言を受けたのかどうかについて具体的に示唆するものは、記録には何もない。しかし、取調べをした警察官たちは、取調べの間に述べられたことをすべて明らかにするように求められた機会は何度もあったが、誰も、スチュワートが自分の権利を助言されたことがあったと示唆することはなかった。 スチュワートは、強盗目的の誘拐、強姦及び殺人により訴追された。彼の公判では、最初の取調べの反訳書と最後の取調べでの自白が証拠として採用された。陪審は、スチュワートを強盗と第1級殺人で有罪とし、かつ、死刑を相当とした。上訴され、カリフォルニア州最高裁判所は有罪判決を破棄した。62 Cal. 2d 571, 400 P. 2d 97, 43 Cal. Rptr. 201.同裁判所は、この裁判所のエスコビード判決に基づき、スチュワートは黙秘権と弁護権を助言されるべきであったのであり、また、沈黙の記録から警察がスチュワートに彼の諸権利を助言したと推認するべきではないと判示した[70]。 われわれは原判決を承認する[71]。身柄拘束下の取調べを検討する際、われわれは、何らかの警告がなされたことも、また、効果的な何らかの代替措置が取られたことも一切示していない記録に基づいて、被告人が彼の諸権利を効果的に知らされ、かつ、彼の自己負罪拒否の特権が十分に保護されたと推認することはしない。そしてまた、沈黙の記録によって、熟慮のうえで理性的にこれらの権利が放棄されたと推測することもできない。さらに言えば、5日間にわたる9回の取調べのうち8回まで彼が断固として嫌疑を否定したことは、彼が持続する取調べによって彼の第5修正の特権を諦めることを強制されたと解釈する以外にはない。 よって、以上の説示にしたがって、第759号事件におけるアリゾナ州最高裁判所の判決、第760号事件におけるニューヨーク上訴裁判所の判決、及び第761号事件における第9巡回区控訴裁判所の判決を破棄し、第584号事件におけるカリフォルニア州最高裁判所の判決を承認する。 以上のとおり命じられた。 |HOME|ミランダの会とは|活動記録|記事・論文|エッセイ|書式集|資料集|刑事弁護Q&A|フォーラム| Copyright (c) 1999-2003 mirandanokai
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