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刑事司法改革の指針となる、内外の判例、国連関係文書等 ミニック対ミシシッピ(抄訳)Minnick v. Mississippi, 498 U.S. 146, 111 S.Ct. 486 (1990). ロバート・S・ミニック、申立人
対 ミシシッピ州 第89−6332号 弁論:1990年10月3日 判決:1990年12月3日 [要旨]申立人ミニックは死刑相当の殺人罪の嫌疑によりミシシッピ州の逮捕状によって逮捕された。彼が弁護士を要請した時点で連邦の法執行官による取り調べは終了し、その後彼は任命された弁護人と2、3回連絡をとった。ミニックは、カウンティの保安官補(county deputy sheriff)から話すことを拒否することはできないと告げられたうえ、その警察官によって取り調べを再開され、自白した。この自白の証拠排除を求める申し立ては拒絶され、彼は有罪を宣告され死刑を言い渡された。ミニックは、間題の自白が彼の第5修正に基づく弁護権を侵害して得られたものであることを理由のひとつとして上訴したが、州最高裁判所は、エドワーズ判決(Edwards v. Arizona, 451 U.S. 477, 101 S.Ct. 1880, 68 L.Ed.2d. 378)によるルール――一度被疑者が弁護人を要請したのちは、「弁護人が利用可能となるまで」捜査官は彼に対する取り調べを再開することはできないというルール――は本件に適用されない、なぜならミニックにとって弁護人は利用可能となっていたから、と述べて上訴を退けた。 判旨:弁護人が要請されたならば取り調べは停止されなければならず、その後は、被疑者が彼の弁護人と相談したか否かにかかわらず、弁護人の在席なしに捜査官は取り調べを再聞することはできない。文脈に即して言えば、弁護人が被疑者に「利用可能である」という要件は、取調べ室の外で弁護士と相談する機会を与えるという意味ではなく、身柄拘束下の取調ベ(custodial interrogation)の間弁護人を在席させる権利を与えるという意味である。このルールは適切でありかつ必要である。なぜなら、単に弁護士と相談するというだけでは、権利放棄を説得しようとする捜査官の持続的な試みから被疑者を解放することはできないし、また、身柄拘束につきものでありまたその長期化とともに増大する強制的圧力から被疑者を解放することもできないからである。提案された例外は、身柄拘束下の取調べに弁護人を在席させる被疑者の権利を保護しようとするエドワーズ判決の目的と両立せず、また、弁護人と相談する機会を与えただけで身柄拘束下の取調べが作り出す強制的雰囲気を実質的に減殺するという理屈を特に排斥したミランダ判決(Miranda v. Arizona, 384 U.S. 436, 86 S.Ct. 1602, 16 L.Ed.2d. 694)とも矛眉する。またそれは、エドワーズ判決の明確で疑間の余地のない性格に由来する利点を弱めるものである。被申立人の定式化したルールによると、エドワーズ判決の保護はその後の弁護人への要請によって再確認されうるというのだから、その保護は何度でも存在と消滅を繰り返しうるのであって、それは司法制度に混乱をまき散らし、基本的な憲法上の原理に対する尊敬の念を喪失させることへと導く単なる気紛れな思いつきと化してしまう。そして、このような例外は、弁護人とのいかなる種類の相談が要請されたらそれがエドワーズ判決による保護に取って代るのかを不明確にする。さらに、機敏な弁護人をもつ被疑者に対してエドワーズ判決の保護を失わせる一方で、動きの遅い弁護人をもつ被疑者はこれを失わないというのは、自己の依頼人に対する弁護士の任務についての適切な概念を歪め、効果的な弁護活動のあるべき姿と相反するものを提起する。ミニックが弁護人を求める特別の要請を行なったのちに、彼に対する取調べは参加を強制された正式の尋間( formal interview)の形で警察によって開始されたのであるから、それは許されざるものであったのである。 原判決551 So.2d. 77 (Miss. 1988)は破棄され、事件は差し戻された。 ケネディ裁判官が法廷意見を告げ、ホワイト、マーシャル、ブラックマン、スティーヴンスおよびオコーナーの各裁判官がこれに同調した。スカーリア裁判官は反対意見を提出し、レンクィスト首席裁判官はこれに同調した。スーター裁判官は本件の審理にも判決にも関与していない。 申立人代理人、フロイド・エイブラムズ(ニュー・ヨーク市) 被申立人代理人、マーヴィン・L・ホワイトJr.(ミシシッピ州) [法廷意見]ケネディ裁判官が次のとおり法廷意見を告げた。 第5修正によって保障された自己負罪拒否の特権を保護するために、われわれは身柄を拘束された被疑者が弁護人の援助を求めたときには警察はその被疑者の取調べを終了しなければならない、と判示した。Miranda v. Arizona, 384 U.S. 436, 86 S.Ct. 1602, 16 L.Ed.2d. 694 (1966).われわれはミランダ判決による保護をエドワーズ判決Edwards v. Arizona, 451 U.S. 477, 484-485, 101 S.Ct. 1880, 1884-1885, 68 L.Ed.2d. 378 (1981)において強化した。すなわち、同判決は、一度被疑者が弁護人を要請したときは彼にとって「弁護人が利用可能になるまで」捜査官は尋問を再開することはてきない、と判示したのである。本件における論点は、一度被疑者が弁護士と相談したならばエドワーズ判決の保護はなくなるのかということである。 申立人ロバート・ミニックとその同房の囚人ジェームズ・ダイエスはミシシッピ州のカウンティ・ジェイルから逃亡し、その翌日武器を得るためにあるモービル・ホームに侵入した。彼らが侵入盗を働いている最中に、モービル・ホームの持ち主エリス・トーマスがラマー・ラファティとラファティの幼少の息子を伴って帰宅した。ダイエスとミニックは、盗んだ武器を使用してトーマスとラマー・ラファティを殺した。ミニックの言い分は、ダイエスが一人の被害者を殺害したあと彼にもう一人を撃つことを強制したというものである。この逃亡囚たちが現場を離れる前に、二人の若い女性がモービル・ホームに来た。彼女たちは銃口を突き付げられ、手足を縛られた。ダイエスとミニックはトーマスのトラックで逃亡し、そのトラックをニューオリンズで捨てた。彼らはメキシコに逃げのびたがそこで喧嘩別れし、ミニックは一人でカリフォルニアに至った。間題の殺人事件から4カ月後、ミニックはカリフォルニア州レモングローブでミシシッピ州の令状によって逮捕された。 本件で間題となる自白はミニックがサンディエゴのジェイルに拘束されている間に行なわれた最後の取調べの結果得られたものであるが、われわれはまずそれに先立つ出来事を記述することにする。ミニックは1986年8月22日金曜日に逮捕された。申立人は逮捕の際とその後に地元の警察から虐待を受けたと証言している。逮捕の翌日の土曜日に二人のFBI捜査官がジェイルを訪れ彼を尋間している。申立人は、自分は尋問を受けるのを拒否したが「尋間を受けに行かなければならなくなる、というようなこと」を告げられたと証言した。FBIの報告書によれば、捜査官は彼にミランダの告知を読みきかせ、彼が自己の権利を理解したことを認めたことがうかがえる。しかしながら、彼は権利放棄書に署名することを拒み、「あまり多くの」質問には答えないと言った。 ミニックは、ジェイルを脱走した経緯を供述し、ダイエスがどのように彼を脅したり殴ったりしたかを説明した。尋問のはじめの頃に、彼は「自分がやられるか、彼らをやるかしかなかったんだよ」と言ってすすり泣いたが、それ以外に問題のトレイラーで何が起こったかを話すことをためらっていた。捜査官たちは、弁護士の立ち合いなしに質問に答える必要はないことを彼に思い起させた。報告書によると、「ミニックは『月曜日にまた来てくれ、それまでに弁護士がいればね』と供述し、さらにその際に弁護士が立ち合っていればより完全な供述をするだろうと述べた」。そしてFBIの尋問は終わった。 FBIの尋間のあとで任命された弁護人が申立人に面会している。申立人は2、3回にわたってその弁護士と話をしているが、これらの打ち合せがすべて対面して行なわれたのかどうかにについては記録上明らかではない。 8月25日月擢日、ミシシッピ州クラークカウンティ保安官補のJ.C.デンハムがミニックを尋問するためにサンディエゴのジェイルを訪れた。看守はこの時もミニックに対してデンハムには「話をしなければならない」と言い、さらに「拒むことはできない」と言った、とミニックは証言している。デンハムは申立人に権利を告知したが、申立人は再び権利放棄書への署名を拒否した。申立人はデンハムに逃亡の経緯を供述し、さらにモービル・ホームでの出来事を説明するに至った。申立人の供述によると、ダイエスはモービル・ホームから飛び出して二人の被害者のうちの最初の一人に対してショットガンで背中を1発、そしてピストルで頭部を1発撃った。するとダイエスは、そのピストルを申立人に手渡し、彼にもう一人の被害者を撃つよう命じ、彼がそうするまでショットガンを申立人に向けて構えていた。また申立人は、二人の少女が来たとき自分はダイエスにレイプしたり傷つけたりするようなことはしないように告げた、と言った。 ミニックはミシンッピ州で殺人罪により公判審理に付された。彼は、FBIやデンハムを含む他の警察官に対するすべての供述の証拠排除を求める申し立てを行なった。公判裁判所はデンハムに対する供述に関しては申し立てを棄却したが、その他の供述は証拠から排除した。申立人は死刑相当殺人罪の2つの訴因について有罪を宣告され、死刑を言い渡された。 上訴審において、申立人は、デンハムに対する自白は第5修正および第6修正に基づく彼の弁護権を侵害して得られたものであると主張した。ミシシッピ州最高裁判所はこの主張を退けた。第5修正に関する問題について、同裁判所は「取調べ開始についてのエドワーズ判決の明決なルール」は本件には適用されない、と結論した。55 So.2d. 77, 83 (1988).同裁判所はエドワーズ判決が弁護人に対する要請が行なわれた後に被疑者に対する取調べが禁止されるのは「『彼に対して弁護人が利用可能となるまで』」であることを示唆する同判決中のことばibid., quoting Edwards v. Arizona, 451 U.S., at 484-485, 101 S.Ct., at 1885に依拠して、「ミニックにとって弁護人は既に利用可能であったのであるから、彼の第5修正による弁護権は満足させられたのである」と結論した。55 So.2d., at 83.同裁判所はまた、申立人はデンハムと話をしたときに第6修正による弁護権を放棄したのであるとして、第6修正に関する主張を退けた。Id., at 83-85. われわれは上告受理申し立てを認めた。485 U.S.___,101 S.Ct. 1921, 109 L.Ed.2d. 28 (1990).そして、第6修正について論しるまでもなく、われわれは弁護人と相談したことはエドワーズによる第5修正の保護を終了せしめるものではないとの結論に達した。 ミランダ対アリゾナMiranda v. Arizona, supra, 384 U.S., at 474, 86 S.Ct.,at 1627. において、われわれは身柄拘束を受けている個人がひとたび彼の弁護権を援用したならば取調べは「弁護士が存在するに至るまで」停止されなければならず、その際には「個人に対して弁護士と相談し、その後に行なわれる如何なる尋間にも弁護人を立ち合わせる機会を与えなければならい」ということを示した。工ドワーズ判決は、「捜査当局が、自らの発意で、既に明確に弁護権を発動している、身柄拘束下にある被疑者を再度取調べるということは、ミランダ判決とそれが生み出したものに矛盾する」と判示してこのミランダ判決の説示に力を与えた。451 U.S., at 485, 101 S.Ct., at 1885.われわれは「被疑者が身柄拘束下の取調べに弁護人を立ち合わせる権利を援用したときは、たとえ彼が自己の権利についてのアドバイスを受けたとしても、その後警察が開始した身柄拘束下の取調べに彼が応答したということのみによって先の権利の有効な放棄がなされたとすることはできない」と判示した。Id., at 484-485, 101 S.Ct., at 1884-1885.さらに、弁護人を要請して「弁護人を通じてのみ警察に対応する意向を示した被疑者は、彼自身がその後において警察との連絡、交換あるいは会話を自ら開始するのでないかぎりは、弁護人が彼にとって利用可能となるまで捜査当局によるそれ以上の取調べの対象とされてはならない」。Id., at 485, 101 S.Ct., at 1885. エドワーズ判決は「自ら一度主張したミランダの権利を被告人自身が放棄するまで追い詰めるようなことを警察がするのを防ぐために案出された」。Michigan v. Harvey, 494 U.S. 344, 350, 101 S.Ct. 1176, 1180, 108 L.Ed.2d. 293 (1990). See also, Smith v. Illinois, 469 U.S. 91, 98, 105 S.Ct. 490, 498, 83 L.Ed.2d. 488 (1984).このルールは、その後の取調べにおいてなされた供述が強迫的圧力の産物でないことを確保しようとするものである。エドワーズ判決は、任意性判断という困難な仕事に拡散してしまうおそれのある司法的資源を節約し、ミランダの保護を実際的で率直なことばによって実現するものである。 エドワーズ判決の実質的価値は、その命ずるところの明確さとその適用の確実性にある。われわれはエドワーズ・ルールが「法執行の専門家にとって『明白で疑いの余地のない』ガイドラインを提供するものである」ことを確認した。Arizona v. Roberson, 486 U.S. 675, 682, 108 S.Ct. 2093, 2098, 100 L.Ed.2d. 704(1988). Cf., Moran v. Burbine, 475 U.S. 412, 425-426, 106 S.Ct. 1135, 1142-1144, 89 L.Ed.2d. 410 (1986).エドワーズ判決の前においても、われわれは、ミランダ判決における「被疑者の弁護人への要請によって取調べは停止されなければならないという比較的厳格な要求は、……警察や検察官に身柄拘束下の取調べにおいて何が許されるのかについての確かな情報を与え、さらに裁判所に対して如何なる情況の下においてこのような取調べによって得られた供述は許容されなくなるのかについての情報を提供するという利点を有する。この確実さという利点は、被告人に対してとともに州にとっても利益なことであって、この利点は、自白が伝統的な第5修正の分析のもとでは任意性があると言えるとしても法執行機関や裁判所に対して真実性の高い、高度の証拠価値が認められる証拠を排除することを強いるという、ミランダ判決が課した負担よりも重いものがあると考えられてきた。」と指摘しているのである。Fare v. Michael C., 442 U.S. 707, 718, 99 S.Ct. 2560, 2568, 61 L.Ed.2d. 197 (1979).エドワーズ判決前のこの説示は、エドワーズ判決にもまた同判決後の判例にも当てはまる。Arizona v. Roberson, supra, 486 U.S., at 681-682, 108 S.Ct., at 2098. ミシシッピ州最高裁判所は、エドワーズ判決における、弁護権を援用した被疑者は「彼に対して弁護人が利用可能となるまで捜査当局によるそれ以上の取調べの対象とされてはならない」というわれわれの説示451 U.S.,at 484-485,101 S.Ct., at 1885に依拠している。このことばの意味について、ミシシッピ州裁判所はエドワーズ判決の保護は弁護人が被疑者と一度相談することによって終了すると考えたのであるが、われわれはそのようには解釈しない。文脈に即して言えば、弁護人が被疑者に「利用可能である」という要件は、取調べ室の外で弁護士と相談する機会を与えるという以上の意味を持っている。 エドワーズ判決において、われわれは「弁護人に身柄拘束下の取調べに在席してもらう」権利を放棄したことはなかったというエドワーズの主張を支持する際に451 U.S., at 482, 101 S.Ct., at 1883(強調は引用者)、被疑者が自己の弁護権を援用したときは「弁護人が在席するに至るまで取調べは停止されなければならない」というミランダ判決の説示384 U.S., 474, 86 S.Ct., at 162(強調は引用者)に焦点を当てた。ミシシッピ州最高裁判所が引用したことばに先立つセンテンスにおいて、われわれは「身柄拘束下の取調べに弁護人を在席させる権利」に言及し、引き続くセンテンスにおいてわれわれは再び「弁護人が在席するに至るまで取調べは停止されなければならない」というフレーズをミランダ判決から引用したのである。451 U.S., at 484-485, 101 S.Ct., at 1885(強調は引用者)さらに言えば、ミシシッピ州最高裁判所が依拠するセンテンスの全文は次のとおりである。「われわれは、さらに進めて、エドワーズのように弁護入のみを適じて警察に対応する意向を示した被疑者は、彼がその後において警察との連絡、交換あるいは会話を自ら開始するのでないかぎりは、弁護人が彼にとって利用可能となるまでは捜査当局によるそれ以上の取調べの対象とされてはならない、と判示する。」Ibid.(強調は引用者) われわれが取調べにおける弁護人の在席を強調するのはエドワーズ判決に独特なものではない。それはミランダ判決に由来するのであり、そこでわれわれは、「弁護人の存在は、……警察での取調べ手続を[第5修正の]特権の要請に適合させるのに必要にして十分な保護措置となりえたであろう。彼の存在は政府主導の雰囲気のなかで作られた供述を強制の産物でないものにすることを保障し得たであろう」と述べた。384 U.S., at 466, 86 S.Ct., at 1623. See A Fare v. Michael C., supra, 422 U.S., at 719, 99 S.Ct., at 2568.エドワーズ判決後の事例は、同判決の意味を、捜査当局は弁護人不在の場所で被疑者の尋間を開始することはできないとしているものと解釈した。例えば、当裁判所の比較多数意見(Plurality of the Court)のなかで当時のレンクィスト裁判官は、エドワーズ判決の判旨を「[エドワーズの]弁護士の在席なしにその後に得られた犯罪を容認する内容の供述は、合衆国憲法第5および第14修正によって被告人に保障された権利を侵害するものである」と説明している。Oregon v. Bradshow, 462 U.S. 1039, 1043, 103 S.Ct. 2830, 77 L.Ed.2d. 405 (1983).(強調は引用者)さらに、次の判例を参照せよ。Arizona v.Roberson,supra,486U.S.,at 880,108 S.Ct., at 2097(「エドワーズ判決のルールは、『もしも個人が弁護士を欲しいと述べたならぱ、弁護士が在席するに至るまで取調べは停止されなければならない』というミランダ判決の説示の当然の帰結である」。);Shea v. Louisiana, 470 U.S. 51, 52, 105 S.Ct. 1065, 1066, 84 L.Ed.2d. 38 (1985)(「エドワーズ対アリゾナ事件において、当裁判所は、被疑者が弁護士を要請した後は、弁護人の在席なしに警察が什掛けた取調べ(police-instigated interrogation)によって得られた自白を利用することは、第5および第14修正のもとで刑事被告人に保障された権利を侵害するものである、と判断した。」)エドワーズ判決の判旨についてのこれらの説明は、「弁護人を通してのみ警察と交渉するという被疑者の選択の完全性を保持することこそエドワーズ判決とその後の判例の真髄である」というわれわれの説示に連なるのである。Patterson v. Illinois, 487 U.S. 285, 291, 108 S.Ct. 2389, 2394, 101 L.Ed.2d.261 (1988).われわれの見たところでは、エドワーズ判決とその後の事例を公正に読むならば、これらはわれわれがエドワーズ・ルールを、被疑者が尋問を受けるときに彼の傍に弁護士を在席させるのでない限り警察が取調べを開始するということを禁止するものと解釈していたことを物語っている。この点に関して従来の先例になんらかの不明確さがたとえあったにしても、われわれは今こそ、弁護人が要請されたならば取調べは停止されなければならず、その後被疑者が彼の弁護人と相談したか否かにかかわらず、弁護人の在席なしに捜査官は取調べを再開することはできない、と判示するものである。 われわれの判断がエドワーズ・ルールの適切かつ必要な応用と言えるのかを検討することにしよう。単に弁護士と相談するというだけでは、権利放棄を説得しようとする捜査官の持続的な試みから被疑者を解放することはできないし、また、身柄拘束につきものでありその長期化とともに増大する強制的圧力から被疑者を解放することもできない。本件は身柄拘束に付きまとう恐れのある圧力と虐待を雄弁に示している。申立人は、拒否したにもかかわらずFBIとデンハムの尋間に服することを要求された、と証言している。後者においては、申立人がFBIの尋問の際に行なった、弁護人が立ち合うまで尋間を中止して欲しいという疑間の余地のない要請に引き続いて、取調べを受けることの強要がなされているのである。本件はまた、弁護士との相談が被疑者に権利を教示するうえにおいて必ずしも効果的でないことをも示している。記録から推測しうることのひとつであるが、申立人は正式の権利放棄書への署名を拒否することによって、自分の自白を証拠から排除できると考えていたことが伺える。もしも捜査当局が取調べに弁護士を在席させることを求めるミニックの要求を受け入れていたなら、弁護士はミニックの誤解を正すことができたであろうし、あるいは実際のところ何も供述する必要などないことを助言することもできたはずである。取調べが再開されたときにはもういない弁護士との1回の相談を理由として、警察が開始した取調べからの保護を除外してしまうことはわれわれにはできない。 ここで提案されたエドワーズ・ルールに対する例外は、身柄拘束下の取調べに弁護人を同席させる被疑者の権利を保護しようとするエドワーズ判決の目的と両立しないものである。それはまたミランダ判決とも矛盾する。同判決においてわれわれは、自己の弁護人と相談する機会というものは身柄拘束下の取調べが作り出す強制に対して実質的な反作用を及ぼすという被申立人の理論をとくに排斥したのである。ミランダ判決のなかでわれわれはつぎのように指摘した。「弁護人によって予め与えられた助言でさえ、密室の取調べによって容易に打ち負かされてしまうのである。したがって、第5修正の特権を保護するための弁護人の必要性というのは、単に取調べに先立って弁護人と相談する権利のみならず、被告人が望むならば如何なる取調べにおいてもその間弁護人を在席させる権利をも包含するのである」。384 U.S., at 470, 86 S.Ct., at 1625 (citation omitted) さらに言えば、提案された例外はエドワーズ判決の「明確で疑間の余地のない」性格に由来する利点を弱めるものである。被申立人は、たとえ弁護人と相談した後であってももう一度弁護人を要請することによってエドワーズ判決の保護が復活すべきであることを認める。この定式化によってわれわれは、第6修正の法理によって同様の保護が再度付与されるアレィンメントの時点に至るまでの間See, Michigan v. Jackson, 475 U.S. 625, 106 S.Ct. 1404, 89 L.Ed.2d. 631 (1986).エドワーズ判決による保護は何度でも存在と消滅を繰り返し得るという制度を採用することを求められているのである。この種の気紛れな思いつきは、司法制度に混乱をまき散らし、憲法の基本的な原理に対する尊敬の念を喪失させることに導くのである。 さらに、提案されたルールを採用すると、どのような種類の相談がエドワーズ判決による保護に取って代るものとして要求されるのか、きわめて不確かな事態を招くことになるだろう。相談というのは決して明確な概念ではない。たとえば、電話で今弁護士がそちらに向かっていると告げることから、拘禁施設の廓下で弁護士と依頼人が急いで言葉を交わすこと、あるいは、対面して長時問にわたる会合を行い、そのなかて弁護士がその後に行なわれるであろう取調べで話題になりそうな全ての事柄について十分なアドヴァイスをすることまで、それは色々なヴァリエーションを含んでいる。そして、たとえ必要な相談の範囲に関する問題が決着したとしても、事件を担当する捜査官はそのような相談がなされたということを確認しなければならず、そして、恐らく、さらに取調べを行なうことが許されるのか否かを決定するために、相談の程度をも確認しておかなければならなくなるだろう。そのために必要な調査は弁護人と依頼人との間の秘匿特権(the attorney-client privilege)に対する介入となりうる。 提案されたルールの明確化とその適用をめぐるこれらの困難に加えて、さらにわれわれは、機敏な弁護人をもつ被疑者はエドワーズ判決による保護を失うのに動きの遅い弁護人をもつ被疑者はこれを失わないという帰結に関心をもつものである。この結末には皮肉以上のものがある。このような事態は、自己の依頼人に対する弁護士の任務に関する適切な概念を歪め、効果的な弁護活動のあるべき姿と相反するものをわれわれにもたらす強い蓋然性がある。 権利放棄も有罪の自認もいずれも個人が責任を承認することと両立するものであり、これは刑事司法制度上の原理のひとつである。しかしながら、如何なる権利放棄もまた如何なる罪の自認も、身柄拘束による強迫的圧力がそれをもたらした原因のひとつではないということについての明確かつシステマティックな保障がない限り無効であると主張することは、この原理からの逸脱を意味するものではない。エドワーズ・ルールはこれらの目的を実現するためのひとつの基準を提供するものである。われわれは他の事例においてこのルールの適用範囲を狭めることを拒否した。See, Arizona v. Roberson, 486 U.S. 675, 108 S.Ct. 2093, 100 L.Ed.2d.704 (1988).弁護人との相談というものによってこの保護を外してしまうことはこのルールの有効性を減殺するであろう。 エドワーズ判決は、被疑者自身が捜査当局との会話やディスカッションを始めた場合には、弁護人を要請した後であっても第5修正上の権利の放棄が認められることを禁じているのではない。しかし、本件はそのような事案ではない。問題の取調べが警察によって開始されたことに疑問の余地はなく、それは申立人が参加を強制された正式の尋問手続であった。この尋問の前に申立人は弁護人を要請する特別の申し出をしているのであるから、この警察か開始した取調べは許されざるものであった。デンハムに対する申立人の供述は公判において許容されざるものであった。 原判決は破棄され、この法廷意見に矛盾しない限りでさらなる審理を行なうために事件は差し戻された。 以上のとおり判決された。 (以下、省略) [訳者:高野隆] |HOME|ミランダの会とは|活動記録|記事・論文|エッセイ|書式集|資料集|刑事弁護Q&A|フォーラム| Copyright (c) 1999-2003 mirandanokai
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