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- 2007年11月
- アメリカ人の目からみると、被害者の参加制度が裁判員制度とほぼ同時に採用されるというのは、皮肉であるとともに、まさに衝撃的である。有罪・無罪の判断と量刑判断が段階を分けられておれば、被害者は量刑判断の段階で自らの意見を述べることもありうるだろう。しかし、有罪無罪を判断する段階にまで被害者の積極的な参加を認めるとなると、これは、裁判員と裁判官とを問わず、事実認定者を、偏見を抱かせるような無数の危険にさらすに等しい。これが合衆国であれば、有罪・無罪の判断の段階での被害者の積極的な参加が、被告人に公正な裁判への権利を保護する観点から、違憲審査で認められるとはまず考えられない。
――ダニエル・フット(溜箭将之訳)『名もない顔もない司法−−日本の裁判は変わるのか』(NTT 出版2007)、310 頁。
- 2007年10月
- 刑訴 143条は「裁判所はこの法律に特別の定ある場合を除いては何人でも証人としてこれを尋問することができる」と規定し、一般国民に証言義務を課しているのである。証人として法廷に出頭し証言することはその証人個人に対しては多大の犠牲を強いるものである。個人的の道義観念からいえば秘密にしておきたいと思うことでも証言しなければならない場合もあり、またその結果、他人から敵意、不信、怨恨を買う場合もあるのである。そして、証言を必要とする具体的事件は訴訟当事者の問題であるのにかかわらず、証人にかかる犠牲を強いる根拠は実験的真実の発見によって法の適正な実現を期することが司法裁判の使命であり、証人の証言を強制することがその使命の達成に不可欠なものであるからである。従って、一般国民の証言義務は国民が司法裁判の適正な行使に協力すべき重大な義務であるといわなければならない。
――最高裁大法廷昭和 27 年 8 月 6 日判決(石井記者事件)、最高裁判所刑事判例集 6 巻 8 号 974 頁、 976-977 頁。
- 2007年9月
- いったい裁判官が裁判をするにあたっては事件を審理した上で結論が先に出るのだろうか、それとも法文と理屈とが先に出てその推理の結果ようやく結論が出るものだろうかという問題です。この問題は日本の裁判官はもちろん外国の裁判官にもしばしばたずねてみました。ところがこれに対する答えはほとんど常に「結論が直感的に先に出る、理屈はあとからつけるものだ」というものでした。
――末弘厳太郎『嘘の効用』(日本評論社 1954[初出1923] )、136頁。
- 2007年8月
- この事件の判決をどうするか考えているとき、私は、ある素人の友人に、事実と法が、有罪を宣告され死刑を言渡されたある男に対して再審を認めことを私に要求しているようだ、と言った。
「彼は殺っているのか」とその友人は尋ねた。
私はただこう答えた。「彼が公正な裁判を受けるまでは、それはわからない」と。 この偉大な国において、公正な裁判を受けていない人々が処刑されようとしているときにわれわれがそれから目を背けてしまうようなことは、決してあってはならない。この事件ではまさにそれが起ろうとしていたのだ。
――フランク・シャイ、オクラホマ東部地区連邦地裁判事、 1995 年 9 月 19 日ロナルド・ウィリアムソン死刑囚の再審を許可する判決において。 Williamson v Reynolds, 904 F.Supp. 1529 (E.D.Okla.1995), at 1676-77, cited in, John Grisham, The Innocent Man: Murder and Injustice in a Small Town (Doubleday, 2006), at 277. この判決の 4 年後、 1999 年 4 月 15 日、 DNA 鑑定によってウィリアムソン氏の無実が証明され、彼は死刑囚監房から釈放された。
- 2007年7月
- 訴訟法は裁判所の執務の安易や簡便のために設けられているものではない。
――小谷勝重最高裁判事。最高裁大法廷昭和 28 年 4 月 1 日判決における補足意見。刑集 7-4-713 、 724 頁。
- 2007年6月
- 裁判の手続は、その古めかしく奇妙であることを旅行者によって賞賛されるべき、歴史的展示物ではない。それは、法の下の正義を推進する力量によって評価されるべき、必須の政府機関である。
――David Pannick, Judges (Oxford University Press, 1987), at p146.
- 2007年5月
- たまたま弁護士資格のある人が法廷で被告人の隣に座っているというだけでは、憲法の要請を満足させるに充分という訳にはいかない。
――サンドラ・ D ・オコナー判事 Strickland v Washington, 466 U.S. 668 (1984), at 685.
- 2007年4月
- 憲法の保障には何がしかのコストが伴うというのは自明の理である。
――スカリア裁判官 Coy v. Iowa, 487 U.S. 1012 (1988), at 1020.
- 2007年3月
- 1 人の奴隷の根拠のない意見によって人類全体の自由と運命とを片付けてしまうわけにはいかない。
――ジョン・ロック John Loke, The Two Treatises of Government, ed., Peter Laslett (Cambridge University Press, 1988[1698]), p177. "1st Treatise" §51.
- 2007年2月
- We defend everybody.(われわれは誰でも弁護する。)
――アール・ロジャーズ( Earl Rogers 1869-1922 アメリカの伝説的な刑事弁護士。21 年間の弁護士生活で189件の無罪評決を獲得した。 77件の殺人の公判で74 件の無罪を得ている。)の口癖。Adela Rogers St. Johns, "Final Verdict" (Doubleday, 1962).
- 2007年1月
- どうか私たちをあなたたち自身が裁いて欲しいと思うやり方で裁いてください。わたしのいうことはそれだけです。
――アフェニ・シャクール 元ブラックパンサー党地区代表、トゥーパック・シャカール(ラッパー、 1996年 9 月ラスベガスで何者かに射殺された)の母親。1971 年5月、ニューヨーク州最高裁判所(事実審裁判所)にて、警察署に爆弾を仕掛けた容疑でパンサー党員 13名が起訴された「パンサーの 13人」事件の被告人の1 人として、陪審に向けて自ら行った最終弁論の1節。出典:アンジェラ・デービス編著(袖井林二郎監訳)『もし奴らが朝にきたら――黒人政治犯・闘いの声』(現代評論社 1972 )、311頁。
 
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