
- 2001年11月
- 人間というものは、よく見ているつもりで実は何も見てはいない。それなのに、いざ何を見たかとたずねられると、全然でたらめな印象を平気で喋りたてるものなのだ。
・・・そういう目撃者たちが、裁判の証人になるとどうだ?証人たちはつぎつぎに証言台に立って、誰も彼もまるで謄写版で刷った原稿を読み上げるように、同じ言葉を並べ立てる。むろん誰だって全然なんにも見なかったわけじゃないだろう。それを警察に行って喋る。すると警察ではその男に、かれの話と他の証人たちの話の食い違いを指摘してみせる。ばかりではなく、“こうであったに違いない”真相を話して聞かせる。それからもう一度よく考え直してみろと言い、その後であらためて陳述のし直しをさせる。それから他の証人たちと話し合わさせる。
つぎに警察は証人たちを事件の現場に連れて行き、“事件を再演”してみせる。というわけで、その証人がいよいよ証人台に立って申し立てることは、事実かれが見たことと、“見たと思う”ことと、他の誰かから見たと“教えられた”ことと、かれが物的な証拠から判断して“見たはずだと思う”こととのよせ集め以外の何ものでもなくなってしまうのだ。(E・S・ガードナー/田中融二訳「怪しい花婿」ペリイ・メイスン・シリーズ早川文庫219頁以下)
- 2001年10月
- 「もし弁護士が、正義の炎を燃え続けさせることを怠るようなことがあったとしたら、およそ被告人は、いかに憎むべき罪に問われていようと、必ず弁護してもらう権利を有しており、彼のために合法的に弁じうる全てのことが立派に語り尽くされなければならない・・、という文明国に相応しい考え方を国民に納得させることのできる者は、果たして誰であろうか。
もしわれわれが、この理想と戦って護るに価するものであることを国民に納得させることができないとしたら、われわれが知っているような自由はもはや終焉を告げる。」
――ロイド・ポール・ストライカー(古賀正義訳)「弁護の技術」青甲社215頁
- 2001年9月
- 「或る問題に関して相対立する意見のうち単に一方のみが弁護者をもっているという場合には、――しかもその双方の意見の間に立って賢明な判決を下すという裁判官的能力ほど稀れな精神的特質はまずないといってもよいのであるから――問題のあらゆる側面、すなわち、真理の断片を体現するあらゆる意見が、単に弁護者をもつというに止まらず、人の傾聴をかちうるように弁護されて、それらの側面の間に均衡を見出すということに比例してしか、真理はその顕現の機会をもちえないのである。」(ジョン・ステュアト・ミル「自由論」岩波文庫106頁)
- 2001年8月
- 「アテナイ人諸君、私にメレトスの訴状にいうような罪過がないことは、多くの弁明を要すまいと思う。・・しかし最初に述べた通り、私に対する多大の敵意が多衆の間に起こっていることが真実であることは確かである。そうしてもし私が滅ぼされるとすれば、私を滅ぼすべきものはこれである。それはメレトスでもなくアニュトスでもなく、むしろ多衆の誹謗と猜忌とである。それは既に多くの善人を滅ぼして来た、思うにまた滅ぼして行くであろう。私がその最後だろうというような心配は決して無用である。」
(プラトン・久保勉訳「ソクラテスの弁明」岩波文庫34頁)
- 2001年7月
- 「いかなる種類の自由であれ、それが一挙に失われるということは滅多にありません。自由に慣れ親しんでいる人々にとっては隷従は世にも恐ろしい身の毛のよだつような顔をしています。ですから、そのような人々に受け容れられるようになるためには、隷従は必ず徐々に忍び寄ってゆき、しかも、無数の姿に身をやつさなければなりません。」
――デイヴィッド・ヒューム「市民の国について」より
- 2001年6月
- 「沈黙を保つことをもって如何なる法を犯したとすることもできないし、如何なる罪も反逆も成立しない。神のみがわれらが心に秘めた思いの裁き人であるから。」
――トーマス・モア 1535年、国王至上法に基づく誓約を拒んだ罪による訴追に対して。
- 2001年5月
- 「『何人も自らを訴追することを強いられない』(Nemo tenetur prodere seipsum)とは貴職らの法ではないか」
――ジョン・ランバート 1532年、異端の嫌疑により宗教裁判所の尋問を受けて。
- 2001年4月
- 「検察側が証拠方法として強制的な自己開示( compulsory self-disclosure )に頼ることを常とするのを認める司法制度は、それゆえに自ら道徳的に傷つかざるを得ない。この傾向は、もっぱらそのような証拠を信頼し、他の証拠についての捜査が不完全でもかまわないという態度を生み出す。
供述を得ようとするための権力の行使は、 その権力の正当な限界を忘却させる。単純で穏やかな訊問の手続が、いじめや腕力あるいは拷問に頼る下地を育む。答えを得る権利があることから、やがて、期待通りの答えを得る権利−−即ち犯罪の自白を得る権利−−もあるように思えてくる。
かように、合法的な権限の行使が不正なる濫用と化していく。そしてついには、無実の者が有害な制度に侵害される危険を被る。この特権を認めない法律制度が経験した筋道は、こういうことだったように思える。」−−ジョン・H・ウィグモア
 
|HOME|ミランダの会とは|活動記録|記事・論文|エッセイ|書式集|資料集|刑事弁護Q&A|フォーラム|
Copyright (c) 1999-2003 mirandanokai
All Rights Reserved.
当サイトで使用している写真および、テキストの無断転載を禁止します。
※このウェブサイトはInternet Explorerのバージョン4.0以上
あるいはNetscape Navigatorのバージョン7.0以上でご覧下さい。
|