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エッセイ

MIRANDA ASSOCIATION

刑事弁護の体験談、刑事司法改革について意見

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事実認定における法律家の役割 --- 高野隆

2005年10月3日

[これは早稲田大学法科大学院における「刑事訴訟実務の基礎」(2年生後期必修科目)の担当コマ「事実認定における法律家の役割」でのオープニング・スピーチとして用意した原稿である。]

「刑事訴訟実務の基礎」という科目は、裁判官、検察官そして弁護士である実務家教員が分担して刑事訴訟の実務を講ずる科目です。シラバスを見てお判りのように、この科目は非常に「事実認定」を重視しています。私にも事実認定に関連して2コマが与えられました。しかし、私は皆さんに事実認定のやり方を教えようとは思いません。だから講義のタイトルを「事実認定」ではなく、「事実認定における法律家の役割」といたしました。これから、その理由を少し述べたいと思います。

皆さん自身がいまその渦中にあるわけですが、いま日本の司法は大きく変ろうとしています。刑事司法も大きな変革の中にあります。それは単に技術的な改革にとどまるものではなく、刑事司法の土台をなす考え方そのものが大きく変わろうとしているのです。

今回のテーマである「事実認定」を考えてみましょう。

近代的な刑事裁判制度が始まった明治の初め以降のほとんどの期間において、被告人の有罪・無罪の決定は裁判官が行ってきました。陪審法が施行されていた1928年から1943年までの15年間を除くと、素人が事実認定に参加するということはありませんでした。これは世界史的には非常に特異な現象ですが、日本では事実認定と言えば裁判官が行うものという固定観念が出来上がってしまいました。これは法曹にかぎらず、全国民的な固定観念と言っても過言ではありません。

その結果どのようなことが起こったか。
 1つは、刑事裁判における事実認定の手続自体が裁判官本位に――裁判官がやり易いように――変容してしまいました。皆さんにとって大変にショッキングなことかもしれませんが、日本の訴訟では事実認定は法廷で行われるのではないのです。事実認定はどこで行われるかというと、それは裁判官の執務室や書斎です。裁判官は法廷で証拠を調べて争点についての心証を得るのではなく、閉ざされた部屋の中で1人で記録を読んで事実を認定するのです。

刑事訴訟法にも刑事訴訟規則にも、「記録を読む」という証拠調べの方法はどこにも書かれていません。なのに、わが国では「記録を読む」のが事実認定の方法になってしまいました。なぜでしょうか。
 証人尋問は公開の法廷で行われなければなりません(刑訴法150条以下)。しかし、沢山の事件を抱えている裁判官は1つの事件で多くの証人を次々に尋問するということができません。そこで、今日はAさんを1時間、この次はBさんを2時間という具合に細切れに尋問していき、それを記録した調書を後でまとめて読むという方法をとることにしたのです。この方法は、転勤が多い日本の官僚裁判官にはうってつけの方法です。途中で裁判官が交代しても、後から来た裁判官は証人の証言態度を見なくても、証言録を読みさえすれば良いのですから。
 法が定めている証拠書類の取調べ方法は公判廷でそれを朗読するという方法だけです(刑訴法305条)。この方法はいうまでもなく、公判が開かれているときにしか行うことができません。この方法では一度にそれほど多くの証拠書類を取り調べることができません。たくさんの書類を全部法廷で朗読するには多くの時間が必要です。そんなことをすれば、他の事件の公判の時間がなくなってしまいます。多くの事件を処理しなければならない裁判官にとって、自分の自由な時間に大量の記録を読んで心証を形成するというやり方は実に便利なやり方だということになります。

こうして法廷では、細切れの証人尋問を行い、かつ証拠書類については、その朗読を省略して書類を裁判官に手渡すだけの手続を行い、あとは裁判官が自分の部屋でそれを読んで判決を書く、という方法が定着しました。

この方法が定着したことは犯罪捜査のやり方にも影響を与えました。法が要求する「朗読」が省略されるのですから、公判の時間そのものは短時間であっても大量の証拠書類を一度に取り調べることが可能となりました。これは捜査官にとっては、長く精密な調書を作ることへのインセンティブになります。だから、捜査官は膨大な量の調書を作るようになりました。

さらに、法律家による法廷での「口頭弁論」も形骸化してしまいました。検察官も弁護人も公開の法廷での弁論の内容をあらかじめ紙に書いておき、法廷ではその内容を朗読し、朗読が終わったらその書面を裁判所に提出することになりました。これも法律上の根拠はありません。裁判官が、法廷で弁論に耳を傾けるよりも提出された書面を読むほうが便利だと感じるのは言うまでもありません。こうして法律家は法廷で弁じたてる技術よりは、良い書面を書くことを重視するようになり、司法研修所でも法廷技術については殆ど何も教えなくなりました。

当事者による法廷活動が低調であり、裁判官が法廷の外で「記録を読む」という手続は、日本独特のものであり、世界にその例はありません。最近松尾浩也先生はこれを「ガラパゴス的状況」と言いました。

事実認定を職業裁判官が独占することによって生み出されたものはこの日本独特の事実認定システムだけではありません。もう1つは、こういうことです。日本では事実認定が法曹の専門的技能の1つであるという考えが強くなりました。そのことは事実認定を行う裁判官の間では1つの集団的確信と言っても良いくらいに定着した考え方ですが、それ以外の法律家――検察官や弁護士――の間にも信奉者がたくさんいます。著名な裁判官で司法研修所の所長を努めた人があるシンポジウムの席上でこう言いました。
 「事実認定こそは、法律家と非法律家を分ける分水嶺である」と。

事実認定が法律家のレーゾン・デートルであるためには、それは一般の人には理解できない特殊な技術的な知識の体系である必要があります。戦後の刑事裁判官たちはまさにそのような体系を樹立することに精力を注ぎました。その結果、刑事事実認定に関する技術的な体系や細目、そして「注意則」と呼ばれるルールを記述した書物が出版されるようになりました。
 司法研修所は修習生に事実認定の技術を教えることに非常に多くの時間を割くようになりました。
 窃盗犯人かどうか、強姦か和姦か、殺意があったかなかったか、等々の事実認定問題は、専門的な訓練を受けた裁判官がこれらの技術を駆使することで誤りなく判断できる、ということになりました。訴訟記録のなかから「間接事実」を拾い出して、それらを積み上げることで主要事実を認定するという技術、これがとても大事だということになりました。だから全ての法曹はこの「技術」を司法研修所で身に着けなければならない。そういう考えの下でここ数十年間の日本の法曹教育は営まれてきたのです。

さて、勿論このような行き方に疑問を呈する人はいました。かく言う私もその1人です。
 公開の法廷での手続を省略して記録を読むという方法で本当に正しい事実認定が行えるのか。事実認定は専門家しかなしえない技術ではなく、常識的な論理と説得の問題ではないのか。そもそも「事実認定のプロ」を自認する職業裁判官の事実認定こそ、常識や論理を無視しているのではないか。司法研修所が「事実認定」として教えているのは、事実認定のやり方そのものではなく、上手な有罪判決書の書き方に過ぎないのではないか。

こうした批判に対して司法研修所の教官たちをはじめとする「法律家こそ事実認定のプロ」だと強調する人々はまともに答えようとはしませんでした。しかし、他方でこの批判は制度変革をもたらすまでには至りませんでした。
 というのは、法曹養成教育の中核が司法研修所にあり、その教育内容を独占的に決定しているのはまさに「法律家は事実認定のプロ」学派の人々だからです。また、現実の訴訟実務はますます「裁判官が書斎で記録を読む」やり方に傾斜していき、われわれもその枠組みのなかで如何にして適正な事実認定を実現するかを考えていかざるを得なかったのです。

しかし、最近状況は大きく変りました。

3年半後には普通の市民、すなわち素人が、プロの裁判官と一緒に事実認定を行う刑事裁判がはじまります。裁判員制度は専門的教育をまったく受けていない普通の市民でも事実認定ができるという前提に立っています。「事実認定こそ法律家と非法律家を分かつ分水嶺だ」という考えに立つ人にとって、これほどの痛撃はないはずです。

確かに、裁判員が事実認定に参加するのは全刑事事件のうちのごくわずかであり、法定刑が非常に重い事件だけです。しかし、殺人事件や強盗致傷事件の事実認定ができるのに、窃盗や詐欺の認定ができないなんてことは筋が通らないでしょう。

要するに、裁判員制度を実施する以上、われわれは、事実認定は専門的な知識と技術の体系であるという発想から脱却しなければならないのです。

裁判員制度のインパクトはこれだけに止まりません。

裁判員は裁判所の職員ではありませんし、官僚機構の一員でもありません。彼らは別に仕事を持っている市民です。彼らは1件の事件を判断するためだけに裁判所に呼び出されたのであって、ずっとそこに留まって仕事をするわけではないのです。要するに、彼らは1つの事件を集中的に処理して、すぐに裁判所を去っていくのです。

そして、彼らは裁判官のように捜査書類を読むことに習熟していません。供述調書や捜査報告書がどのようなものなのか、いままで一度も見たことがない人々です。

彼ら裁判員が法廷の主役だとするならば、彼らのやり易いように手続が改められなければなりません。職業裁判官が法を無視して手続を自分たちに都合が良いように改変したのですから、裁判員にだって手続を自分たちのやり易いように変える権利があろうというものです。
 裁判員がその仕事をうまくやるにはどのような手続が必要か。私は少なくとも次の3つは必要だと考えます。つまりこういうことです。
 第1に、公判は最初から最後まで連続して行われること。
 第2に、書類の出番が殆どないこと。そして、
 第3に、例外的に書類が登場したとしてもそれを後で部屋に持って帰って読むという方法を採らないこと。つまりすべて法廷で朗読されること。
以上です。

要約すると、事実認定は公判廷で集中的に行われなければならないということです。
 法律家の仕事は文書を作って裁判官に渡すと言うのではすまなくなります。当事者を代理する法律家の仕事は、法廷で裁判員や裁判官を説得するということにならざるを得ません。

私はこのような変革を今まで長い間待ち望んでいました。なぜなら、実を言うと、今述べたことは、現行法の要求そのものだからです。いままでのやり方が法に反していたのです。

私は、今回のこの変革を促進するための努力をしたいと考えています。

しかし、あらゆる社会変革がそうであるように、この事実認定における法律家の役割の変革に関しても、変革を望まない人たちが存在しています。甚だ残念なことに法曹の間にもこのような抵抗勢力がたくさんいます。
 司法研修所はこれまでと変らない、「事実認定」に焦点を当てた教育を続けるようです。刑事裁判官の中には、裁判員制度が始まってもこれまでと同じように書証を法廷で受け取って、それを部屋で読むという方法で事実認定が行えるものだと考えている人がいます。

しかし、証拠書類が評議室に持ち込まれたらどうなるでしょうか。先ほども指摘したように、裁判員たちは証拠書類というものに慣れていません。その読み方を知りません。結局、彼らはプロである裁判官に証拠書類を読んでもらい、その意味するところを裁判官から説明されるのを期待するようになるでしょう。裁判官は評議室の中で専門家として振舞うでしょう。これでは裁判員はただの飾りになってしまいます。

またぞろ新しい「ガラパゴス的状況」が生まれてしまうことになります。

私はそのような状況にならないことを祈っています。
 祈るだけではなく、そうならないための努力を一所懸命したいと考えています。

改革を後退させないための第一の条件は、法律家が法廷における説得の技術を身につけることです。法律家が法廷こそ自分たちの職場であり、活躍の場であるということを自覚すること、これなくして、「戦後における最大の司法改革」すなわち裁判員制度はうまく行かないでしょう。

これで今日の講義が何のために行われるのか、皆さんにご理解いただけたことと思います。

今日ははじまりに過ぎません。法廷における説得の技術は21世紀の日本の法律家として、その生涯をかけるに値するテーマです。皆さんにその重要さと面白さを理解していただければ今回の講義の目的は達したことになります。

ありがとうございました。

以上


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