![]() |
|
|
刑事弁護の体験談、刑事司法改革について意見 刑事弁護ガイドラインについての意見 --- 弁護士 高野嘉雄2000年10月18日 1 はじめに私見を述べる前に私の経歴を述べておきたい。私は大阪で20年間、奈良で7年間登録している。大阪では多くの労働、公安事件に関与し、甲山事件等の冤罪事件の弁護に当たってきた。奈良での事件の大半は国選事件を中心に私選事件の弁護も含めて種々雑多の事件を担当してきた。 覚せい剤、窃盗、ヤクザの事件、企業の事件、贈収賄事件など正に雑貨屋的弁護である(尚刑事事件は受任事件の1〜2割である)。検察官出身、若手弁護士と共同受任した経験も多数ある。 公安事件、冤罪事件の捜査、公判弁護活動の中で警察、検察からの熾烈な弁護活動の妨害(接見妨害、罪証隠滅、偽証等による恫喝)、裁判所による強権的訴訟指揮(発言禁止、退廷、措置請求等)等正に国家権力の攻撃を受けてきた。弁護活動は国家権力との闘いであるとの実感をもって弁護活動をしてきた。 他方種々雑多の事件を経験する中で余りに無責任、無方針な弁護活動を見分してきた。当番弁護士制度の発足後、多くの若い弁護士が参加する中で刑事弁護活動が活発化し誠実に弁護活動する弁護士が著しく増加しているのは事実であるが、それでも不誠実、無責任な弁護活動(接見をしない、記録の閲覧、謄写をしない、形だけの弁論、弁論要旨を提出しない、つい最近も無罪を争っている事件(私選)で当方は50頁以上の弁論、共犯者の弁護人は数頁という体験をした)が目につくというのが実感である。以上の体験の中からの体験的な意見を述べる。 2 刑事弁護ガイドラインは必要か私は必要であると考える。無責任、不誠実弁護は“少ない”のではなく、かなり多いというのが現実であるというのが私の認識だからである。従ってその現実を改善するための指針としては必要であると考える。全体的な刑事弁護の質の改善の中でこそ、「先進的」弁護は広く弁護士、社会の支持を得られると考える。一部の「先進的」弁護活動がこれまで弁護士会内部で「奇異」、「そんなことをやっている連中もいるのか」とみられていたのがこれまでの現実ではなかったか。 ガイドラインの作成自体が「国家権力との対抗性」の喪失であるとか、国家権力の介入をもたらすとの主張は納得できない。共犯事件の受任論等については「国家権力との対抗性」の視点に欠けているとの指摘には同調するが、その余のガイドラインについては問題にならず、具体的なガイドラインの内容の問題であるというべきである。ガイドラインの作成が国家権力の介入をもたらす、あるいは国家権力に迎合しているとの批判については、ガイドライン作成の経過の中にそのような傾向が紛れ込んでいたのではないかとの印象はあるが、だからといってガイドライン自体の作成の必要性がないとの意見には同調できない。 刑事弁護の実態に対する反省の中から、その改善策としてガイドラインの作成に至っているというのも事実だからである。共犯受任論も現実の共犯事件の弁護状況に対する批判と反省からの意見である。被告人、被疑者に対する誠実義務の視点から共犯受任禁止論が出ていることは明らかである。公安事件的共犯事件の弁護の視点のみからの批判は一面的である。 被告人、被疑者に対する誠実義務が刑事弁護の根底にあることを正しく評価し、この基本方針に従った弁護活動を一般化することこそが現在全ての弁護士に求められていると考える。このような考え方に刑事弁護ガイドラインは則っているというべきである。 3 個別的条項について(1)ガイドライン12条について いわゆる真実義務については弁護人は真実義務を負わないというのが私の意見であるが、これをガイドラインに明記するのは政治的にみて妥当ではない。刑事弁護センターの第2次案が甲、乙案としてこれを明記したのは勇気があるとは考えるが蛮勇である。丁案が相当と考える。 (2)ガイドライン13条について 共犯事件の弁護は弁護人として最も悩ましい。 いわゆる公安事件においては、弁護人自身が国家権力についての独自の価値判断により、弁護活動をするということが多い。国家権力に抵抗することは正義であると考え、集団ないし団体の利益を擁護するという弁護活動をするのである。私自身そういう立場から弁護活動をしてきた。その場合は完黙を指示するのであるが、捜査官の取調べの中で多くの被告人、被疑者が動揺するのを目の当たりにして、弁護人も又動揺するのである。「元気」な弁護人はそれでも完黙を指示し、結局は解任されるということを経験するということは稀ではない。 このような場合に、自白し、解任をした被疑者に対して「脱落した」、「裏切った」、「国家権力に屈した」という弁護人も少なくなかった。しかしそれは弁護人の立場として妥当ではないのではなかろうか。被疑者、被告人個人を離れて弁護人は存在しえない。被疑者、被告人個人を超越した団体、集団のための弁護等は本来の弁護ではあり得ないのではないか、被疑者、被告人個人に弁護人は依拠すべきとする論が出てきたというのは、左翼的、反権力的な労働公安事件の弁護活動の流れが一つの潮流となっている日本の刑事弁護の歴史の中で画期的なことである。 そういう意味で共犯者の受任禁止論は十分に評価されるべきである。「国家権力との対抗性」を、被疑者、被告人個人の利益とは独立した団体ないし集団の利益、正義があるとして、それを弁護活動の基礎におく論は弁護人の独自の立場、弁護人の価値観を被疑者、被告人の利益よりも上位におくものとして、同調できない。 しかし、他方、共犯者受任禁止論は日本の現状、秩序優先、公安優先の捜査の現状に余りに無防備であると考える。 特に利害対立した時の総辞任論は暴論というしかない。 多数共犯者の事件の弁護をどう処理するのかについては、様々な立場があり、それを個別被疑者、被告人の個別利益(その時々の被疑者、被告人の考え)絶対化するのか、それを前提としつつも将来の結論を見据えて対応するのか(現実の被疑者、被告人の考えに依拠するのではなく、トータルな視点から被疑者、被告人を説得し続けるという立場)、あるいは事件当時の被告人、被疑者の考えを守り、対国家権力への抵抗を第一義とすべきなのか等、それぞれの立場は弁護人と被疑者、被告人の自律に任せていくというのが最も妥当であろう。それを特定の価値観、弁護の価値観で一律に対処するのは妥当ではない。ましてそれをガイドラインとすることは少なくとも日本の刑事弁護、捜査状況の下では妥当ではない。 そのような視点から乙案が相当である。甲、乙案に反対する意見は弁護の基本的ありように対して余りに無自覚であり、共犯事件弁護の現実の矛盾に対して無責任であるというべきである。集団的、組織的事件は何も労働公安的事件のみではない。会社等の組織的事件、いわゆる暴力団が絡む事件もある。「国家権力との対抗性」こそが弁護の本質であるとする人々、あるいは共犯事件も同時受任することは当然であるという人々は、これらの事件の弁護をどうイメージするのかを問いたい。 社会正義に反するこの種の事件は受任しないでは話にならない。誠実義務を弁護活動の基礎とするという発想は、労働公安事件も、会社事件も、暴力団事件も受任し、弁護活動をしてきた人々の、悩みの中から形成さたという側面があると私は認識している。私自身がそうである。誠実義務に依拠する弁護活動も「国家権力との対抗性」の認識なくして不可能であるのはそのとおりであるが、反対論者がいう「国家権力との対抗性」が問題となる情状弁護とはどのよな事件のことをイメージしているのかを知りたい。私は更生とは自力による更生こそが最も望ましいとの考え方を基礎とする限り「どんな件でも」国家権力との対抗性が問題となると考えている。しかしそれをもって国家権力の弾圧との闘い等とはいうべきではないと考えている(この更生に資する弁護という視点は誠実義務との関係では論議の予想される余地がある)。 |HOME|ミランダの会とは|活動記録|記事・論文|エッセイ|書式集|資料集|刑事弁護Q&A|フォーラム| Copyright (c) 1999-2003 mirandanokai
All Rights Reserved. |