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刑事弁護の体験談、刑事司法改革について意見 「刑事弁護ガイドライン」を創ろう --- 下村忠利2000年8月25日 おもしろきこともなき世をおもしろく・・・
ミランダの会の高野隆弁護士が「最大限の敬意と祝福」という表現まで使って日弁連刑事弁護センター「ガイドライン研究会」の作業による提案を評価された。ぜひこの機会に同研究会に参加していた一人として、私の個人的見解を述べておきたい。 [1]まず、わが国の刑事被疑者・被告人は、「資格を有する弁護人」(憲法37条3項)の弁護を受けてきたのかどうかということである。ちゃんとした適格な弁護を受けることは被疑者・被告人に保証された権利であるのに、残念ながらこの問に対する答えは「否」なのではないか。 私は、25年前(1974年)に司法修習生となってはじめてわが国の刑事司法の現実に触れ、少なからず驚いた覚えがある。それは刑事裁判官や検察官が刑事弁護人をどこか心の底では軽侮していることであり、時として侮蔑的・嘲笑的ともいえる態度を露骨にとることであった。ちょうど後藤昌次郎弁護士が弁護士会推薦にもかかわらず、司法研修所の刑事弁護教官採用を拒否された年であり、弁護士法制定(1949年)から25年経過したころであった。 私の実務修習した法律事務所は、珍しく刑事弁護専門といえる事務所であった。私は学生時代から「裁判闘争」というものを夢みていたし、「えん罪」から無実の人を救い出す仕事には人生を賭ける価値があるとも思っていた。 ところが、現実にみた刑事弁護は低調であり、修習生として傍聴していて思わず赤面するような場面も目にせざるをえなかった。私は初心だけは忘れるまいと誓った。 弁護士になり、諸先輩方の仲間に入れてもらい、「裁判闘争」をいくつか経験した。「えん罪」事件弁護も学んだ。集団事件あるいは労働公安事件型弁護の優れた実績をも知った。確かに、これら先達の弁護活動の切り開いた地平というものは輝かしいといえた。 しかし、現実にはそのような弁護活動はごくわずかのケースであることも知った。大多数の被疑者・被告人は「普通」の刑事弁護を受けていた。大多数の「普通」の刑事弁護を担っていたのは、元検事(ヤメ検)、元判事(ヤメ判)と、おざなりに停滞した国選弁護人、あるいは、繁忙な民事事件の片手間でたまになされている刑事弁護であったりした。そしてその多くは「何卒、執行猶予の御恩典を賜りたい」といった弁論に代表される「嘆願としての弁護」なのである。 私は、「闘争としての弁護」を考えていた。公訴事実の一部について争いあればもちろん、争いがなくとも、量刑・情状に関わる事実について取締側・訴追側とは対立して闘わなければならない。弁護人が被疑者・被告人側に立って徹底的に「闘う」ことによってこそ取締側・訴追側の主張を「主張として相対化」することが可能になり、はじめて当事者主義が実現する(日本戦犯を弁護する敵国アメリカ人の弁護のしかたを見て、和島岩吉、毛利与一弁護士らが、わが国の刑事弁護は今まで「嘆願としての弁護」であったが、やはり弁護は「闘争としての弁護」でなければならないと気づいたといわれる下村幸雄『刑事裁判を問う』勁草書房331頁参照)。 しかし、一般の「普通」の事件において多くの刑事弁護人が「闘争としての弁護」どころか「嘆願としての弁護」さえちゃんとやらず、多くの被疑者・被告人が不安と不満をどこかに抱き、あるいは泣いていたのではなかろうか。 その後、25年が経った(弁護士法制定からは50年ということになる)。 この間、1978年に、先進的弁護活動を規制せんとして、「弁護人抜き裁判特例法」の攻撃があり、これに対する反撃の中で日弁連理事会は「弁護士自治の問題に関する答申書」を承認した。弁護士会による相互批判と指導・助言の路線である(この件については、別の機会に触れたいと思う)。 そのうち歴史は前進し、事態は改善されてきたであろうか。否。残念ながら、私自身を省みても、周囲をみまわしても根本的な変化はなかったといえる。25年前に私が驚いた状況は基本的に同じである。 「悪弁が良弁を駆逐する」かのような、あいも変わらず同様の事態がみられる。ある法廷通訳人からみた話として「刑事弁護人の半分くらいが『普通』で、残り半分は・・・」といわれるくらいである。 すぐれた労働公安事件弁護、あるいは「えん罪」事件弁護はわが国の刑事弁護を総体としては変革してこなかったのである。 [2]若き修習生の私を驚かせた刑事裁判官と検察官の刑事弁護人に対する不当な軽侮にはやはり原因があった。それは少数の優れた弁護活動の一方に大多数のそうでないちゃんとしていない弁護活動が毎日毎日繰り広げられている現実を彼らが一番よく知っていたことである。 刑事専門の裁判官と検察官と刑事弁護では素人に近い弁護人が法廷で向き合って、もっと素人の被告人の事件を次々と処理していく毎日なのである。 いわゆるヤメ検の人たちの中にも数多くの優れた刑事弁護人がおられることをよく知っているので、失礼をかえりみずあえて言わせていただくことになるが、ヤメ検の一般的イメージとしては、弁護費用は高いがかつての地位を利用してもらえるということであったり、組織(企業)のためには場合によっては通謀的な弁護をするということであったり、いわば「取引としての弁護」における活躍が思い浮かべられているであろう。これらは意識的・無意識的にふりまかれた幻想なのかもしれないが、一部にはやはり真実がある。 ヤメ検の人たちはもと検察官の職にあったとき、自分は公的立場にあるが弁護人というのは私的事業家として弁護費用取得のためにせっせと仕事をしていると思い込んでいたのではなかろうか。従って、公的立場を辞して弁護人となったからには、私的利害のために活動するのが当然という感覚があるのではないか。すなわち、ヤメ検の人にはかつて自分の抱いていた「悪徳弁護士」に自分を重ね合わせてしまう傾向があるのではないか。もちろん、このようなヤメ検弁護士はごく少数であろうが、それが現実であることも確かなのである。 そして裁判官の中には、熱心な刑事弁護に対してすら嘲笑的態度をとる人が今もいる。 刑事事件に習熟した刑事専門弁護士の数は少ない。 一般社会どころか刑事司法の世界においてすら、刑事弁護人の役割・権限が尊重されていないこと、これも病理現象のひとつなのである。 [3]弁護士法1条1項は、「社会正義の実現」をとき、2項は「社会秩序の維持」を努力義務として弁護士に課している。さらに、弁護士倫理7条は「真実の発見をゆるがせにしてはならない」とまで規定する。刑事弁護について弁護士倫理は第9条で「被疑者・被告人の正当な利益と権利を擁護するため、常に最善の弁護活動に努める」と定めているのみで、これだけでは刑事弁護人の役割と権限について具体的な手がかりとはならない。 そこで、「闘う弁護」には、その武器とともにシェルターとなりうる陣地・堡塁がどうしても必要となる。刑事弁護にふりかかってくる様々な妨害・非難・中傷と闘い、被疑者・被告人を守らなければならない。刑訴法196条は「弁護人は・・・・捜査の妨げとならないように注意しなければならない」と明文で定めているし、これは現実に正当な弁護活動を捜査妨害であると非難する根拠とされている(死文化しているとの説もあるが、理解できない)。 刑事弁護人にいくつかの権限があるのは、いうまでもなく弁護士のためではなく、被疑者・被告人の防禦権を保証するためである。刑事弁護は被疑者・被告人のためのものであって、その利益と権利を守るためのものである。誰から守るかといえば、いうまでもなく、まずは強大な国家権力からである。 さらに「敵」は国家権力のみでない。あるときは「被害者」でありあるときは市民社会全体かもしれない。今や、(元)オウム信徒の家族の住民登録さえ認めない(市民権自体を認めず、まさに「非国民」として扱う)ことすら容認されようとしているおもしろくない世の中である。 刑事弁護人にはたとえ全世界を敵にまわし、周囲から石を投げつけられようともいっしょに耐えるだけの強靱さ(=しなやかで強いこと、強くてねばりがあること)が必要とされる。しかし、その気概だけではとうてい無理なのである。 [4]刑事弁護人は、場合によってはその属している(いた)組織体からも被疑者・被告人の利益と権利を守ることになる。組織体(団結した集団)からの離脱は脱落であったり、「裏切り」であったり、「転向」といわれたりもする。一定の「正しい」とされる理念でもって構成される集団からの離脱は「転向」と非難され、反社会集団(暴力団、オウムなど)からの離脱は「更生」であったり、「マインドコントロールからの解放」として評価されるのが一般である。 いうまでもなく刑事弁護は組織や団体のためにするのではなく、当該個人たる被疑者・被告人のためのものである。これは、国家と対峙して刑事手続を受け、制裁を蒙るのはあくまで生身の個人である以上、あたりまえの原則である。組織体は当然のことながら、組織に対する「弾圧」に対して、組織を防禦するための弁護を期待するであろう。しかし、弁護費用がどこから出捐されていようが、この原則にいささかも修正の余地はない。 破防法の適用、暴力団対策法の施行(平成4年3月)、組織犯罪対策法の施行(平成12年4月)、団体規制法のオウムへの適用など国家は組織解体の攻撃を強化している(私は以上のいずれの違憲訴訟にも関わっている)。 このような中で、従来の労働公安事件型弁護の実績も解体されてはならない。いささかでも後退は許されない。そのとき、従前はとことん詰めきってまでは結論が出されていなかった共同受任の問題、費用出捐の問題などが浮かび上がってこざるを得ない。 組織体の被疑者・被告人数名を一人の弁護人が共同受任しておれば、組織体から一名が離脱させられた時点で、それまでの弁護活動は窮地に陥ってしまう。弁護士法25条により、「一、相手方の協議を受けて賛助し、又はその依頼を承諾した事件。二、相手方の協議を受けた事件で、その協議の程度及び方法が信頼関係に基づくと認められるもの」は、職務を行うことが禁止されている。組織体の被疑者・被告人数名を共同受任していると離脱した一名についても、残った数名についても誠実な弁護活動ができなくなってしまうことになる(後藤貞人『共犯弁護と利害対立』季刊刑事弁護22号)。 これは労働公安事件型弁護の陥穽といわねばならない。 そのとき、離脱した被疑者・被告人の立場は考慮せず、あくまで組織体に残る被疑者・被告人の弁護だけは続けるというのでは、実はその弁護人は自分の正しいと考える組織体の利益を守るための弁護をしていたことを自白したようなものである。ここでは、まさか組織体の正しい利益を守ることが組織構成員個人の権利を守ることになるといった団体主義を主張することにはなるまい。 そこで、刑事弁護ガイドラインが必要となる。 [5]ガイドラインなどいらない、刑事弁護は一律に論じられない、その場その場で闘って行けば良いという意見がある。未熟でも試行錯誤の中で自己批判・相互批判でやっていけばよいというのである。 わが国の刑事司法は病んでいると言われるが、そのような病理現象の原因は明らかに刑事弁護にもある。そして、われわれには専門家としてこれを「健全」にしなければならない責務がある。 密室での長時間の取調べ、接見交通の妨害、証拠の未開示、調書裁判、人質司法などなど、うんざりするほどおもしろくない毎日が刑事弁護人の前には待ち構えている。その結果、被疑者・被告人やその家族との間に生ずる軋轢も終始たえない。刑事司法の病理現象の中で、信頼関係を維持するには相当な強靱さが要求される。 そこで、刑事弁護の武器として、また、シェルターとして働きうる準則を創る必要がある。おもしろくない刑事司法を刑事弁護人自身の手で変えようとする試みとして、刑事弁護ガイドラインの提唱をしたいのである。 「司法改革」の名のもとで、否がおうでも、刑事司法は変わっていく。放っておけば「政治改革」「行政改革」などわが国の「改革」の常として必ず悪い方へと変えられてしまう。 弁護士法制定後半世紀を経て21世紀をむかえるわが国の刑事弁護が旧態依然たる不健全さから脱却し、本当にわが国の被疑者・被告人が世界的水準なみの刑事弁護を手にできるようにしたいという思いは、刑事司法の中で苦闘している大方の刑事弁護士の一致するところであろう。同じ状況の中で刑事弁護をやっている仲間として議論すれば、必ずや共通の理解に達すると私は信じる。 [6]弁護士法1条の「社会正義」というのは普通は国民一般の正義感情を指すことになろう。ところで、刑事弁護はこれと基本的に対立するのが普通なのである。 人権擁護と社会正義に基づく社会秩序として「安心して幸福にくらせる社会」を最重視する考え方がある。これを「人間社会における最高規範と考えるべきものである」とまで言うのである(司法と弁護士制度を考える大阪弁護士会有志の会「意見書」2頁)。 しかし、そもそも社会秩序に反し、これを破壊したとして厳しく糾弾・追及されているのが被疑者・被告人であって、この権利を擁護する刑事弁護と右の考え方とは明確に対立する。もともとこの考え方は「市民的安全の要求」を掲げ社会防衛をめざすものとして、保安処分制度導入の論拠とされたものではなかったか。 刑事弁護の原点からは到底認めることができない。 ここで、近いうちに必ずや切実な課題となってくるであろう「闘う民主主義」論についても触れておかざるをえない。 この論は、デモクラシーがファシズムに敗北した歴史的教訓に基づいて、西欧において主張され、一部は立法化され実現しつつある見解である。すなわち、民主主義社会を守るためには民主主義自体を否定する存在、ファシスト、さらにはテロリストの刑事上の権利(たとえば黙秘権)は、一般市民より制限されて然るべきであるというものである。わが国では、すでに(元)オウム信徒に対して先取り的に適用されているともいえる。 私のいう「闘う」刑事弁護は、この「闘う」民主主義に与しない。 実は、この問題は古くから議論されてきた。大乗仏教における「一闡提」(イッチャンテカ)をめぐる論争もそのひとつである。「一闡提」とは、仏教と敵対するもの、仏教教団の組織を破壊するもののことであるが、このようなものについても、仏性(救われる資格)があるのか否かという「難問」について、次のように決着がつけられている。 「一切衆生、悉く仏性有り、乃至、一闡提等も亦仏性有り」(大般涅槃経巻27・師子吼菩薩品第11の1ー524下) どのようなものにも救われる権利があることは、もはや民主主義の次元を越えた原理であるように私は考えている。 [7]刑事弁護ガイドラインの策定により、これを準則として何か新らたな制約が課せられるのではないか、との警戒を抱かれている弁護士がいる。 しかし、誰がどのような目的をもってその制約を課すのかこそが問題である。被疑者・被告人の利益に反する弁護がこの準則によって批判され、駆逐されていくのは当然であろう。刑事弁護ガイドラインは、単なるマニュアルではなく、そのような「準則」性をもつべきであり、まさに弁護士自治の本領を発揮すべき場面ではないのか。 また、被疑者公選制度確立の動きの中で、特に警戒心をもってみられているようである。 被疑者公選の運営のため法律扶助協会とは別の法人が設立されるとしても、そのような団体に刑事弁護のガイドラインを作らせてはならず、ましてや適用主体としてはならないことはいうまでもない。今われわれは刑事弁護人自らの手によって、以前からの実践と議論の成果の継続のうえに刑事ガイドラインを創ろうとしているのである。 ところで、被疑者公選といっても現在の被告人国選の質の低さがそのまま被疑者段階へ拡大するだけでは何にもならない。 被疑者公選の実現には当番弁護士制度が大きな役割を果たしているといわれている。 私ごとになるが、私は刑事専門弁護士として事務所を経営している関係で、当番弁護士制度発足の際には、実は秘かに危機感をもっていた。もっぱら私選で捜査段階からの弁護活動を仕事の中心としていたからこれを失ってしまうのではないかと心配したのである。 しかし、これは私の杞憂であった。捜査段階から弁護人がつくことがある意味では常識になっていくという成果はあったが、それと同時に、「当番も結局は国選と同じだ(弁護の質は良くない)」との風潮が被疑者及びその家族の間に急速に一般化していったからである。東京地検刑事部副部長を務められていた高井康行弁護士の「当番弁護士と捜査」(季刊刑事弁護・21、44頁)によれば、「当番弁護士運動は当初のエネルギーと捜査への影響力を次第に失っていった」とされ、「当番弁護士がついていたら、それまでより取調べが円滑に進む」という事例に接するようになって驚いたということである。 従前の国選弁護の質がそのまま捜査段階に移行するだけでは、より悪い結果さえ生じる。被疑者公選制度は被疑者にとって当然の制度であり、その実現はあまりにも遅きに失したといえるが、この機会にこそ私選・国選を区別しない、そして捜査・公判段階を区別しない刑事弁護のガイドラインを創るべきである。 [8]刑事弁護ガイドラインは、刑事弁護人は何よりも被疑者・被告人のために最善をつくすという原理を具体的に準則化して明示し、被疑者・被告人と一般社会にの広く宣明しようとするものである。 このように明示されたもの(これを常に検証・改善していく作業はもちろん必要である)をよりどころとして、闘う武器とし、守る陣地とする。そのようなものとして刑事弁護の質を具体化し、刑事弁護の内実を創出し、一般化していかなければならない。 刑事弁護ガイドラインのいくつかの条項が一般に浸透し、「普通」の刑事弁護人がそれを確実に実践する(はず)ということが一般世間でも自明の通念となっていけば、事態は少しは異なってくるであろう(全てがよくなるというほどおめでたいことを考えているわけではないが)。 新聞記者が取材源を秘匿するのが倫理とされていることは意外に広く知られている通念であり、専門職業上の準則として承認され信頼されている。それで、一般市民も安心して取材に応じるのである。 アメリカではミランダ・ルールのことはどんな子供でも知っている。アクションドラマ等を通じても社会に浸透している。アメリカ法曹協会(ABA)の準則も広く公表されている。 常に被疑者・被告人のために最善をつくすことが刑事弁護人の準則とされていること、黙秘権等の積極的な行使をアドバイスするのは当然であること、秘密は固く守ってくれること、組織のためではなく自分のためにこそ弁護してくれること、家族らとの連絡を自由にとってくれること、場合によっては自分のかわりに被害者側と接触してくれること、これらが当然の刑事弁護専門職の準則として打ち立てられ、社会に浸透していることが重要である。 弁護人の役割についてちゃんとした教育を受けたことのないわが国の捜査官は、取調べにあたって、被疑者に対して次のように目茶苦茶に弁護人の悪口を言い、分断しようとするのが常である。 ・お前の弁護人はお前個人のことなんか全く真剣には考えていないのだ。お金のためだけに弁護しているのだ。言いなりになっているとまだまだお前の家族は金をとられて泣くことになるぞ。 ・なに! 黙秘権を行使しろとか、供述調書の署名を拒否せよとかいうのか、弁護人にそんなことを言う権利はない。罪証隠滅でお前の弁護人をパクってやる。 ・お前の弁護人は組織(会社、労働組合、暴力団など)から、金をもらっている。組織が大事なんだ。お前を弁護するといいながら、組織のために働いているんだ。 ・お前の弁護人は自分の主義主張のためだけに無理な主張を押しつけているだけだ。お前が損をするだけだ。 ・・・などなど。 これが、朝・昼・夜にかけて、毎日10時間近い長時間にわたって罵声とともに投げつけられている言辞の数々である。 これに対して、一回数十分程度の接見しかしておらず、特に以前からの面識もない弁護人のことを被疑者は信頼し続けてくれるであろうか。捜査官から言いたい放題の弁護活動の排除・中傷を加えられて、「自分の弁護人はそんなことはしないはずだ」「ちゃんとやってくれるはずだ」と孤立した密室の中で確信をもって耐えてくれているであろうか。まんまとつけ込まれて動揺して疑心暗鬼に陥っているのではなかろうか。このような不安を抱いたことのない刑事弁護人は一人もいないであろう。 そのためにも、刑事弁護ガイドラインが広く社会に浸透することが重要である。被疑者が「そんなことはないはずだ。私の弁護人は当然のことを間違いなくやってくれているはずだ」と信じておれば、正当な権利をもっと強力に自信をもって行使することができよう。 このように刑事弁護ガイドラインは、まさに被疑者・被告人の権利のために必要なのである。捜査官自身が刑事弁護人は金のため、組織のため、あるいは個人的な信念のためにだけやっていると思っているからこそ、前記のような発言が発せられる状況が生まれるわけであるが、まずは捜査官がそのようなことを恥ずかしくて発言できず、被疑者自身もこれにつけ込まれない前提条件を創り出すことである。 [9]刑事弁護活動に対して外部からはもちろん、自主規制的にせよ、不当な制約がなされることは絶対に許せないとの感覚は貴重である。刑事弁護ガイドラインの策定については、提案の仕方に一部配慮を欠いたこともあって、いち早くこのような危惧を抱かれた方々の「鋭敏さ」には敬意を惜しまない。 しかし、刑事弁護ガイドラインを創ろうとするのは刑事弁護人の権限の制約としてではなく、刑事弁護人の権限を謳い、被疑者・被告人の弁護享受権を明確に打ち立てようとする刑事専門の弁護活動の中からの提案なのである。刑事弁護の武器でありシェルターであり、結局のところ、被疑者・被告人の適格な弁護を受ける権利の内実となるものを創る必要性については、同じ刑事司法の実状の中で格闘されている方々からの理解は必ず得られると思う。 刑事弁護ガイドラインを創れば、刑事弁護人に対する信頼をもっと大胆に社会に浸透させていける。弁護人の役割についての理解を社会の共通認識としていく手がかりとなる。憲法・刑訴法上の諸権利の行使において被疑者・被告人が躊躇を覚えることが少なくなる。共犯事件・集団事件の弁護はずっとやりやすく、かつ効果的なものとなる。 「組織犯罪」の弁護が適切にできる。被害者(と称する人)に対して何の逡巡もなく正面きって接触できる。開示記録はより積極的に活用できる。真実義務と誠実義務をめぐる難解な議論(不毛とまではいわないが)とは離れて、大胆に歩みを進めることができる。 これらは刑事弁護権の具体的中味を創出するとともに、刑事弁護に対する攻撃から防御するシェルターたりうる。個々のケースにおいて、検察官や裁判官などから、あるいは一般社会から、不当な攻撃が加えられてきた際、この弁護活動はけっして自分一人が正しいと思ってする行為ではなく、日弁連として熟慮の検討を得たうえでの公式見解たる刑事弁護ガイドラインに基づくものだということで、思い切り自信をもってはねかえしていける。 刑事弁護ガイドラインの創出で刑事弁護は少しおもしろくなる。 以上 |HOME|ミランダの会とは|活動記録|記事・論文|エッセイ|書式集|資料集|刑事弁護Q&A|フォーラム| Copyright (c) 1999-2003 mirandanokai
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