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刑事弁護の体験談、刑事司法改革について意見 「刑事弁護ガイドライン」を作ろう --- 弁護士 高野隆2000年7月27日 良き職を目指す者すべてにとって道徳哲学は必須である。 [1]専門職は高度の学識と厳しい訓練によって専門職たりえるが、それと同時にその内部に厳しく適用される戒律が存在することが、専門職団体の「自治」の要件である。戒律はときに不条理に見えるときもある。最近、イタリアのカトリック神父は、マフィアの犯罪を阻止するために告解の内容を公表してしまったために、資格を剥奪された。この戒律の適用は一見不条理であるが、しかし、この戒律にひとたび例外を認めたならば、宗教上の秘蹟である告解はその意義を失う危険があるのである。 今世紀に入って、倫理綱領制定の動きは聖職者だけではなく、多くの専門職団体の間に広まっている。世界的にみるならば、弁護士や医師のほか、看護婦などの準専門職も倫理コードを採用して「専門職化」を主張している。アメリカ法曹協会(ABA)は1908年に最初の弁護士倫理規範を制定して以来、数次の改定を経て1969年に「モデルコード」を制定し、これは多くの州が州法あるいは裁判所規則として採用している。その後も改訂を繰り返し、1983年には「モデル・ルール」へと進化した。議論と改訂の作業はその後も決して途絶えることなく、今日に至っている。 先の告解の例にも伺えるように、専門職とその集団は一般の倫理とは異なった独特の倫理(professional ethics)を必要とする。弁護士を例に挙げるならば、一般倫理からすれば、罪を犯した者は自らの過ちを告白することが正しく、そのような告白を奨励することが正しいとされるであろうが、当事者主義の刑事手続のもとにおいては、告白しない権利があることを依頼人に知らせること、ときには積極的にその権利行使を勧めること、そして罪の告白を受けた弁護士はそれを決して他者に告げないことが弁護士倫理の上から要請されるのである。 専門職が一般倫理と異なる倫理を必要とするということは、普通にはなかなか理解されない。聖職者ではなく、世俗の専門職に過ぎない弁護士の職業倫理についてはなおさらである。「なぜ悪い奴の味方をするのか」という素朴な疑問から「なぜ真相の発見を妨げるのか」という批判に至るまで様々な倫理的な批判にわれわれは直面しているのである。これは机上の空論ではない。また、弁護士に対するこのような批判をするのは、残念ながら、素人だけではない。わたしの個人的な体験を言うならば、「ミランダの会」が結成された1995年の春以来今日まで、わたしは警察官や検察官、そして裁判官からも倫理的な批判を受けてきた。 われわれの弁護活動に対する批判の中心は弁護士法1条と弁護士倫理7条に基づくものであった。すなわち、捜査段階において被疑者に黙秘権の行使を勧めたり、供述調書への署名拒否権の行使を勧めることは、「社会正義の実現」(弁護士法1条)という弁護士の基本的な職務に違反し、かつ、「真実の発見をゆるがせ」(弁護士倫理7条)にするものであると彼らは言うのである。アメリカでは、黙秘権の行使を勧める弁護人に対してこのような批判をする専門家は決していないだろうし、素人ですらそのようなことは言わないだろう。 [2]この落差は何に由来するのか?第1に、当事者主義のシステムにおける弁護戦略の選択が弁護士・依頼人間の秘匿特権(lawyer-client privilege)によって守られるべきものであり、そのもとで徹底的に行われる弁護人と被疑者とのコミュニケーションの産物であらねならないということが理解されておらず、むしろ弁護士は公的な価値を代弁するものであり、彼らが被疑者に対してパターナリスティックな役割を果たすべきことが一般に期待されている。弁護士倫理の最も基礎的な原理がこの国では社会的に認知されていないのである。そして、第2に、弁護士職内部においても事情はあまり変わりがないというある意味で絶望的な現実がある。残念ながら、日本の刑事弁護士の多くは、この弁護士の役割を理解せず、依頼者の利益に忠誠を誓い、そのために熱心に活動するという弁護士倫理の中核(とわたしが理解するもの高野「陪審裁判と弁護士の職責」季刊刑事弁護23号参照)に沿った弁護活動を行っているとは言い難い現実があるのである。要するにわれわれは圧倒的に少数派なのである。 このような現状を改革する必要はないのだろうか?「ミランダの会」のような弁護活動を「先進的な弁護活動」と言って一括りにして放逐し、いわば「誉め殺し」状態にしておけば、大多数の弁護士は安泰である。しかし、それでは先に指摘した「落差」は決して縮まることはないだろう。「アクションプログラム」は永遠にプログラムのままで終わるだろう。川崎英明教授が指摘したように、ミランダの会のように実践を通じて実務を変革していこうとする「変革型弁護」と現在の多数派である「停滞型弁護」との「二極分化」がある限り(川崎英明「刑事弁護と権利運動」浅田和茂ほか編『転換期の刑事法学』(現代人文社、1999年)、117、188-189頁)、結局、現在のシステムは何も変わらないであろう。「停滞型弁護」で日常生活を過ごしながら、「非日常」の出来事として訪れる「冤罪事件」や「労働公安事件」については集団の力で「変革型弁護」を行うという戦略がこの国の旧来の刑事司法システムを変革する力となりえなかったことは歴史的に明らかである。 「変革型弁護」が「停滞型弁護」を乗越えて、この国の刑事弁護の主流とならない限り――「変革型弁護」がわれわれ弁護士の「日常」となるのでない限り――「アクションプログラム」が実現されることはないのである。そのためには何が必要なのか?「変革型弁護」に対する攻撃の中核が「弁護士倫理」にある以上、まずもって必要なことは、「変革型弁護」の正当性を支える弁護士倫理を明示し、その基本となるポリシーやプリンシプルを社会に浸透させることであるはずである。われわれに必要なのは、依頼人の利益に忠実な弁護活動の水準を明確に示し、世に問うことである。「停滞型弁護」に安住し、依頼人の利益を守る熱意を失った弁護士を懲戒に付し、この業界から排除することである。一度も依頼人に会わないまま法廷に立つ弁護士が現在も弁護士名簿に登載されている。被告人が否認しているのに、調書を全部同意してしまう弁護士がいる。検事の誘導尋問に一度も異議を申立てない弁護士がいる。われわれは刑事弁護の適格性(competency)の基準を定め、それに満たない弁護士を法廷から駆逐しなければならない。 [3] 日弁連刑事弁護センター刑事弁護実務小委員会は1997年10月「刑事弁護ガイドライン研究会」を発足させた。同研究会は、その後2回の合宿を含む18回の検討会議を行い、2000年2月7日、解説を含めて132ページに達する「刑事弁護ガイドライン試案」を発表した。その後この試案(「第一次案」)に対して、後述するような批判が起こり、同研究会は、同年5月11日付で、主たる批判の対象であった条項を削除した「第二次案」を発表するに至った。 ところが、かなりの数の弁護士や弁護士の団体は、この試案の修正や発展ではなく、全面的な廃棄を求め、そのための運動を展開している。彼らは、この時期に「ガイドライン」を作ることは、「刑事弁護の国家管理化」に道を開くものであると結論する。第1に、法務省は被疑者国選弁護の前提として、@その運営主体を法務省管轄下の民間法人にゆだねること、及びA「不適切弁護」を排除するためのガイドラインが必要であることを要求しており、今回のガイドラインは、日弁連が法務省との意見交換会で発表した「国費による被疑者(及び被告人)弁護制度の新たな構想」(1999年12月)のなかで「法務省管轄下の民間法人」を提起したこととあいまって、法務省が「不適切」と考える弁護活動を排除する足がかりになるものである、と彼らは言う。そして、第2に、「ガイドライン」(第二次案)において、この懸念を具体的に裏付ける条項として、共犯事件の同時受任を制限する第13条は捜査官による共犯者切り崩しに根拠を与えるものであるとか、開示記録を「弁護活動その他正当な目的の範囲内」での利用に限定する第16条は、捜査に対する社会的批判や弾劾を封じるものであると指摘している(刑事弁護ガイドライン策定反対運動「7つの疑問ムム刑事弁護ガイドライン」)。 さて、国選弁護とはなんだろうか?それは国家が国費によって管理運営する刑事弁護制度のことである。それは紛れもなく、「国家管理下の」刑事弁護なのである。現在わが国で行われている国選弁護制度も弁護人を選ぶのは裁判官であり、解任するのも裁判官であり、報酬額を決めるのも裁判官である。アメリカの公設弁護人事務所は州の機関である。公設弁護人事務所の所長は州知事が任命する。予算は議会の承認のもとで州政府が支出するのである。これらの弁護制度が国家(政府)によって管理運営されるという本質に変りはないのである。もしも「刑事弁護の国家管理」がいけないというのであれば、われわれは憲法を改正して国選弁護制度を廃止しなければならないであろう。 国対個人の対立紛争である刑事手続において、一方当事者である国がその相手方である個人の防禦のためにお金を出し、弁護人をつけてやるのはなぜか?それは刑事訴追システムという公共財に対する信頼を維持するためである。被告人を訴追するのは国家であり、国家は常に莫大な国費を使って専門の法律家=検察官にその仕事を担わせ、事件の捜査のためにも膨大な税金を費やして多数の人員を投入している。国家から刑事訴追を受ける個人に対して、法律家の援助がないとしたら、裁判は極めて一方的なものになってしまい、裁判に対する信頼は一挙に崩れ去るだろう。そのような社会に生きることをわれわれは決して望まないのである。これを個人の側から見れば公正な裁判を受ける基本的な権利というデュー・プロセスの保障につながるのである(合衆国最高裁判所のギデオン判決(1963年)を是非参照されたい)。 この基本的なポリシーを常に念頭におかなければ、「国選弁護」はいつでも国家による刑事弁護への恣意的な介入の口実になる危険を孕むのである。そして、この基本的なポリシーを国選弁護の隅々にまで生かしつづける方策をこそわれわれは考えつづけなければならないのである。そのような方策として第一に掲げなければならないのは、国家から選任された弁護士であっても、依頼人である個人のために全力を挙げて弁護するという弁護士職の基本的な戒律に殉じるエートスとモラールを持った弁護士集団を用意することである。弁護士会に要請されるのはそのような弁護士集団のための戒律をつくり、その基礎にあるポリシーを広く社会全体に行き渡させると同時に、それを「運営主体」に厳しく適用させることである。「刑事弁護ガイドライン」はそのための貴重な第一歩なのである。 ガイドライン第二次案は「共犯事件の同時受任」について甲乙2つの案を併記している。甲案は「利害対立の可能性がある」場合に同時受任を禁止し、「共通の弁護が被疑者・被告人にとって有利であることが明らかな場合その他特別の事情がある場合」に例外的にこれを許すという構成をとっている。乙案は捜査弁護に関してはこの原則と例外を逆転し、「明らかな利害の対立がありこれが解消される見込みがない場合」を除いて共同受任を許している。いずれにおいても、利害対立がある場合はすべての依頼人の弁護を辞任するのが原則である。 ガイドラインに反対する人は、この規定を称して「捜査機関による共犯者切り崩し」に力を貸すものであると言って批判する。一人一人の被疑者被告人のその個別の利益を擁護する弁護士をつけることがどうして「共犯者切り崩し」になるのだろうか。わたしには全く理解できない。埼玉弁護士会は、昨年、共犯事件において国選弁護人は被告人毎に選任するように浦和地方裁判所に申し入れを行い、共犯事件で一人の国選弁護人しか選任しないのは弁護権の侵害であると主張した。なぜなら、全ての被告人には自分個人の弁護人によって十分な弁護を受ける権利があるのであり、共犯者間で利害が対立する契機は決して異例の事態ではなく、複数の被告人に一人の弁護人しかいなければ個々の被告人が弁護人に対するコミュニケーションを自ら制約し、対立を持ち出すことを自己規制し、結果として十分な主張・防禦が阻害されてしまうことすらありえるからである。もしも、共通の弁護方針のもとで弁護することが依頼人の利益に適うのであれば、それぞれの弁護人が連絡を取り合って共通の防禦を実践すれば良いし、弁護人にはそうする義務があるのである。 刑事弁護は個人を国家による過剰な侵害から防禦することを使命とするのである。その個人が所属する組織や団体の利益を守るためにあるのではないし、被疑者・被告人の政治的信条や宗教的信念を擁護するためにあるのでもない。ガイドライン反対派が唱える「共犯者切り崩し」論の背後には団体主義がある。刑事弁護士は、必要とあれば、依頼人のためにその所属する団体や組織と対決することも辞さない覚悟を持っていなければならない。「依頼人の利益を守る」とはそういうことである。 [4]日弁連が速やかに「刑事弁護ガイドライン」を策定しなければ、法務省は「被疑者国選弁護」と引換えに彼らの「ガイドライン」を提案するであろう。彼らのガイドラインは、意見交換会で彼らが示したように、われわれの依頼人との間のコミュニケーションに割って入り、われわれの弁護活動は「被疑者に対して、取調べ、供述、供述調書への署名拒否」を「慫慂する行為」であって、「不適切」と名づけるだろう。そして、このような威嚇に決して屈しないわがミランダの会の会員たちは、それでも依頼者のために全力を尽くすだろう。そして、次々に懲戒を申立てられることになるだろう。 以上 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